なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史移民編聞き取り調査

「私の国籍は日本である。ペルーに来た頃は、永住のつもりはなく、十年ぐらいしたら帰
国する予定であった。」
ペルーリマ市 故・知念鶴清さん(享年87才)
私は知念鶴七、母カマの長男として1913年(大正2)、当時の佐敷村外間で生まれた。きょ

うだいは全部で六男三女の九人であったが、健在なのは私のほか、沖縄にいる二人の妹だ
けである。
生家の屋号はミーヤシチグヮーと言った。私は佐敷尋常高等小学校を卒業後二年間、父の
仕事を手伝い、家で農業をした。馬も飼っていたので、草刈りは私の日課であった。
ペルーに来たのは私が十六歳の時である。先に渡航していたおば与那城カマの呼び寄せ移
民として、私は一人で沖縄を発った。目的は金もうけのためである。しかし私は当時まだ
16歳の子どもだったので、最初のころは金もうけに来たのか、遊びに来たのか、自分でも
よく分からないくらいであった。
1929年(昭和4)5月、ペルーのカヤオ港に着いた。早速リマ市ビクトリア区に行き、そこで
おば与那城カマの経営する果汁店の店員として、約6か月間働いた。
その後、同じリマ市のポインテカイエ・アベニーダプロシアに移り、自分の果物店を経営
するようになった。この仕事は十五年続けた。1940年(昭和15)5月13日、ペルーで排日暴
動があり、多くの日本人が打撃を受けたが、幸い私の店は略奪を免れた。太平洋戦争中の
一時期、リマ市内バランコで、トラックの運送業に従事したこともあった。
戦後は友人の助力で養鶏業をはじめ、二千から三千羽の鶏を飼った。土地は他府県出身の
日本人移民から借りていた。約二十年間この仕事をして、1972年頃からは隠居の身である

私は27歳の時、4歳下のペルー人女性と結婚した。子どもは四男一女の五人である。子ど
もたちも成長してそれぞれ結婚し、現在では孫12人、ひ孫が3人いる。ペルー人の妻は沖
縄料理もできるが、それは私の方がうまい。
ことばはすべてスペイン語である。子どもたちは冲縄方言だけは少し聞けるが、話しはで
きない。私は若い時にペルーに来て店員をしたので、金の計算や会話などのスペイン語は
できるようになったが、書くことはできない。最初の頃は仕事で道を歩いている時でも、
看板などを見るとペルー人に「何と書いてあるのか」、と積極的に聞いたりしてスペイン
語を覚えたものである。
戦前、郷里に送金していた。戦後も一度、終戦直後の何もない時代に約三百ソーレス(約二
百ドル)送った。
1970年(昭和45)、渡航後初めて親戚訪問のため一時帰国した。41年ぶりの郷里に、昔日の
面影はなかった。二度目の帰国は1993年、その時に祖先の位牌をもってきた。
私の国籍は日本である。ペルーに来た頃は永住のつもりはなく、十年ぐらいしたら帰国す
る予定であった。昔の沖縄では、百円貯めるのも並大抵ではなかった。そのため皆、出稼
ぎをしたものだ。
ペルーの排日感情は、1940年から太平洋戦争中特に激しかった。以前より薄れてはいるが
、現在でも排日はあると思う。冲縄に帰りたい気持ちはあるが、土地も家もないので、子
や孫たちのいるここで永住するしかないと思っている。
※調査年月日1994年9月14日

(調査員石川友紀)

知念鶴清さんは昨年亡くなられたとのことです。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1k466T0B5o3jCo8Q5E010v3pNJ1FV6NO2
大分類 テキスト
資料コード 008454
内容コード G000000763-0006
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第287号(2001年6月)
ページ 4
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2001/06/10
公開日 2023/12/15