「私は移民してもうけて帰るつもりだったが、子どもらに恵まれ生活も安定しているので
、ブラジルに骨を埋める覚悟である。」
ブラジル サント・アンドレ市在住 山城信吉さん(59才)
私は戦後のブラジル移民で、現在サント・アンドレ市に住んでいる。私は太平洋戦争が
始まった年の1941年(昭和16)、父山城長信、母シズ子の次男として字新里で生まれた。き
ょうだいは四男五女の九人。生家の屋号はメーミーヤシチグワー(前新屋敷小)である。
父の仕事は農業で、私がブラジルに行く前は畑が五百坪、田が四百坪ぐらいあり、サト
ウキビのほかに大豆やイモ、米などを作っていた。
1956年3月、私は佐敷中学校を卒業したが、家計を助けるためすぐに働くことになった
。当時私の家では姉が琉大に、長兄も高校に通い、働き手は父一人しかいなかった。そん
な父の姿を見兼ねて私は高校進学をあきらめたのである。
最初は父の仕事を手伝うかたわら、母方のおじ勢理客幸英から竹細工を教わり、ざるを
作って売ったりしていた。その後嘉手納の米軍基地に勤めたが、遠くて通勤に不便だった
ので一年でやめ、また父と一緒に農業をしていた。ちょうどその頃、冲縄では再開された
南米移民がブームをよんでいた。
「沖縄には米軍基地が多すぎる。万が一また戦争になれば今度こそ沖縄は全滅だ。男の
子のうち一人くらいは外国に移民させたい。そうすれば家の血筋は絶えることがない」。
父は常々、そう話していた。その父に感化され私も、沖縄で千坪たらずの土地にしがみ
ついて農業するより、外国の広い土地で自分の力を発揮したい、と考えた。そこで父がブ
ラジルにいたいとこの山城達助に頼んで、呼び寄せてもらうことになった。
1961年6月、那覇を発ち神戸の移民訓練所に入所した。最初私は妹の勝子と二人で行く
つもりであったが、17歳の妹には渡航許可が降りず、結局ひとりで行くことになった。
チチャレンカ号で神戸を出港。長い航海を経て同年8月13日、目的地ブラジルのサントス
港に上陸した。私はまだ満19歳であった。
さて、大いなる夢と希望を抱いてブラジルに着いた私は、いとこの山城達助の世話でサ
ント・アンドレ市に落着き、そこで早速土地を借りて野菜づくりを始めた。作った野菜は
仲買人に売るのである。言葉には苦労したが三年間がむしゃらに働いた。23歳の時、資金
ができたので土地を買い、自営農として晴れて独立することができた。
結婚したのは28歳の時である。妻文子は両親が名護市源河出身のブラジル二世。私たち
は一男三女の子どもに恵まれた。子どもたちが成長し働き手がふえたので、 1991年頃か
らはフェーラ(露天商)の仕事もするようになった。自分たちの畑で作ったものも、ここで
販売している。
ブラジル生まれの妻と子どもたちとは別に、私の国籍は日本のままである。ブラジルの
教育を受けた子どもたちは皆、日本語を知らない。妻も、聞くことはできるが話せない。
私は移民してもうけて帰るつもりだったが、子どもらに恵まれ生活も安定しているので、
ブラジルに骨を埋める覚悟である。
1988年、母の七十三の生年祝いの時、家族全員で帰国した。母は私の妻や子どもたちに
初めて会い、とても喜んでくれた。今年二月、母の八十五の祝いで今度は妻と二人で里帰
りができて幸いである。
※佐敷町史は現在「移民編」の作業をすすめております。資料提供等、ご協力をお願い致
します。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1BcCuf-ehH-qxdT4O_L6q-a9VlAL1rdW8 |
---|---|
大分類 | テキスト |
資料コード | 008454 |
内容コード | G000000762-0005 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第286号(2001年5月) |
ページ | 3 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2001/05/10 |
公開日 | 2023/12/15 |