「収容所では、2個のおにぎりが支給され、それが1日分の食糧でした。
ひもじくてひもじくて、気が変になる人もいました」
字津波古在住 嶺井作助さん(93才)
私と妻カマドは、ともに明治40年(1907)12月生まれで、ふたりとも同じように9人きょうだ
いでした。
結婚してキビ作中心の農業をしていましたが、私はいつも沖縄から広い所へ出たいと考え
ていました。
私たちには子どもがいなかったので、30歳になった年、募集人の求めに応じて、ブラジルヘ
渡ることにしました。カマドのおいで当時21歳の照喜名セイコウと一緒でした。
渡航費用として、県から1人あて50円の補助金をもらいました。神戸港から船で47日かかっ
て、ブラジルはサントス港に着きました。昭和12年10月のことで、10年くらいたってもうけ
たら帰ってくるつもりでした。
サントスでは青野菜やブロッコリー、カリフラワーを作りました。そこから2キロ先の市場
まで持って行き、卸しもすれば相対売りもしました。夜中の2時には市場に出かけました。
ある日、いつものように市場に行くと突然、日本人とドイツ人、イタリア人は敵国人だから
すぐ立ち去れといわれ、そのまま収容所に連れて行かれました。こちら(サントス)へ来てか
ら8年がたち、生活も安定し、荷馬車も持つことができて、これからという時にです。日米戦
争がはじまった時ですが、最初は何が何だか知りませんでした。
収穫中の野菜、家畜の豚、ヤギ、馬も全部うち捨てたまま私たちは列車に乗せられましたが、
身動きもできないほど積み込まれたという感じでした。窓をあけることも許されませんで
した。こうしてサントスから3時間余で、サンパウロの収容所に着きました。
収容所では、2個のおにぎりが支給され、それが1日分の食糧でした。ひもじくてひもじくて、
気が変になる人もいました。それにもまして気の毒だったのは、便所でお産をした人がいた
ことです。
収容所にいたのは1、2週間でした。そこにいる間に、それぞれ身の振り方を決めるように言
われたので、私たちはアララクアラに行くことにしました。アララクアラには沖縄県出身者
がたくさんいて、同じ津波古の宮城三郎さんもいました。
そこで再び野菜作りに精を出し、サントスにいた時と同じように、自分たちで市場に持って
いきました。果物も豊富にあり、その仲買いもしました。どんどん売れて、だいぶもうかりま
した。
ブラジルにいる間、7月、正月はじめ祭祀行事も盛んでした。ユタ買いも多かったです。私た
ちはユタは頼みませんでしたが、トートーメーを持っていっていたので、7月、正月には盛大
な供え物をしました。
模合も盛んで、よく集まっては食べたり踊ったりして、とても楽しかったです。ヤマトゥン
チュがいつも羨ましがっていました。
私たち夫婦はヤマトゥの友だちがたくさんいて、その人たちから仲間に加えて欲しいと頼
まれましたが、それはだめだと、ほかの人に断られました。理由は、その人が入ることでヤマ
トゥグチを使うのは、いやだということでした。
生活も安定し、家に送金することもできました。しかし私たちは1987年に帰国しました。毎
晩「帰ってこい」と、亡くなった父が夢枕に立つので思いきって帰ってきたのです。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1z9OWxsI0rpRQD-_yG7d_vwRK_Bc6_jUx |
---|---|
大分類 | テキスト |
資料コード | 008453 |
内容コード | G000000753-0006 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第281号(2000年12月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/12/10 |
公開日 | 2023/12/14 |