「帰ってきてから、大阪で生まれた長男が病気になり、2歳の誕生日を前にして、百名の病院
で亡くなってしまいました」
字冨祖崎在住 真栄城政子さん(77才)
私は伊原の出身です。実家の屋号はクニンドー真栄城グヮーといい、父の名前は真栄城守真
、母はマカトと言っておりました。きょうだいは三男四女。
私は上から3番目の三女でした。
佐敷尋常高等小学校の尋常科を卒業して、次に高等科が2年ありますが、私は高等科には途
中までしか行きませんでした。当時、帽子編みの仕事がはやっていて、畑の少ない家は、それ
で稼いで生活費にあてていました。私もすぐ、その帽子編みをさせられました。
実家の隣に、みんなが集まって帽子編みする所がありました。1週間に一度くらいそこに会
社の人がきて、帽子の出来具合を見て値だんをつけていました。編み方によって、出来のい
いのと悪いのがありましたから、一つひとつ値だんが違います。私などはせいぜい、1週間に
20銭から30銭ぐらいしか稼げなかったんです。
やがて17歳(数え)の時、ほかの人と同じように憧れて、大阪に出稼ぎに行きました。紡績女工
です。私の二人の姉も帽子編みを経験してから、紡績に行っていました。そういう人が多か
ったですよ。
募集人も回っていたし、友だちもどんどん行くから、みな憧れて-。親は反対でしたが、何も
ない沖縄にいるよりはという気持ちが強かったんです。
それで大阪に着いて、連れて行かれた所が堺福島紡績でした。ここは沖縄の人が多く、私の
親戚もいるし、知り合いもいました。勤務時間は朝5時頃起床し、食事を済ませて、7時頃から
タ方5時頃まででした。昼食をとる時だけが唯一の休けい時間で、あとは機械がずっと動い
ていて、トイレに行くのもアワティーハーティー(大慌て)でした。
紡績にはいろいろな作業工程がありますが、私はレンジョーという所。綿から糸になる時の
仕事です。一生懸命働きましたね。給料はいくらだったか覚えていませんが、1年後に50円で
したか、家に送金することができました。
休日には町に出て買物をすることもありましたが、ぜいたくはしないように心がけていま
した。一度だけ大宜見小太郎の芝居に誘われて、大阪まで見に行きました。周りに沖縄の人
がいると言っても、時々は親が恋しくて泣いたこともありました。
1年半後に、体の調子が悪くなったので仕事をやめて帰郷しました。ヤイト(お灸)の治療を受
けたりしながら、その間はまた帽子編みでした。本当に沖縄では帽子編みしかなかったです
からねェ。
20歳の時に、また大阪行きの船に乗りました。
奈良県の北葛城郡にあった紡績ですが、そこは何となく窮屈で、1週間で逃げ出してしまい
ました。大阪機工という軍需工場の社員食堂に、姉が働いていて、私もそこに勤めることに
なりました。配給制になって食糧不足でしたので、伊丹の方で芋を作ったりしたこともあり
ました。
22歳の時、満期除隊して大阪にいた真栄城と結婚し、仕事をやめました。結婚式は内輪だけ
集まり、灯火管制の中でかんたんにあげました。大阪の空襲はひどかったですからね。
終戦の翌年の昭和21年11月、親子3人無事に引揚げてきました。冨祖崎の夫の家のテント小
屋で一緒に暮らしました。帰ってきてから、大阪で生まれた長男が病気になり、2歳の誕生日
を前にして、百名の病院で亡くなってしまいました。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1g6RGv95wcOE47RIO-hEWv90NHZjoHhZv |
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008453 |
内容コード | G000000752-0005 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第280号(2000年11月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/11/10 |
公開日 | 2023/12/14 |