「芋を買えない人は、ふすまを食べていたんです。塩味だけで。小麦粉をつくる時に出る皮くずですよ。あれは本当に気の毒でした。」
字津波古在住 新田器一さん(78才)
私は県立農林学校を卒業して、佐敷村農会の食糧増産技手として働いておりましたよ。農会はいまの農業組合です。卒業は昭和14年です。その頃は戦時中の総動員体制ですからね、仕事は増産のために稲、芋、小麦、大豆などの生産指導でした。
佐敷で一番多かったのは芋でした。芋は供出もしています。各農家から部落に集めて、馬車で県農会に持って行きました。ほかに加工用のでんぷんやアルコール用の原料は、直接会社が部落に取りに来ていました。垣花(現在の那覇)にナンヨウ酒造という会社がありましたね。
太平洋戦争が始まって翌年、糸満国民学校で徴兵検査を受けました。私は乙種で、1年後の昭和18年(1943)には召集令状が来ました。私は西部七六部隊の高射砲四連隊に配属され、そこで初年兵教育を受けました。部隊は久留米市の近くの甘木市(当時は町)にありました。
3か月後には、下関に送られました。高射砲隊ですから北九州方面の防空が連隊の任務です。下関にいる時、幹部候補生の試験があり、私も受けて甲種に合格しました。甲乙ともに半年間は下関で教育を受けたあと、甲種は千葉県に送られました。名前は予備士官学校ですが、物資が何もなく、冬の寒い時も暖房さえなかったです。そこにいる時、毒ガス訓練もありましたね。
昭和19年の10月に下関に戻り、明けて20年の1月、私は少尉に任官されました。戻ってきた頃から八幡、小倉を中心に殆ど毎日のように米軍の空襲があり、そのうちに下関も空襲です。
米軍は関門海峡に機雷を投下していますが、これは上空から落下傘を使っていました。一機で5、6発くらい搭載し、十機内外でやってくるのです。一度、その機雷が私たちの陣地の近くに落ちて、海軍に頼んで時限装置をはずしてもらったことがあります。戦後になって、機雷の爆薬を使って風呂のたきつけをしようとした兵隊が、操作を誤ったのでしょう。爆発して、その兵隊は一瞬のうちに木っぱみじんに吹き飛んで死にました。あと2週間では家に帰れるという時でした。
こちらは高射砲隊なので、米軍機がくると一応撃ちましたが、日本の高射砲は精度が悪くてなかなか当たらなかったんです。
終戦は門司の風師山という所で迎えました。1か月くらい残務整理をしてから復員です。夏冬用の衣服と毛布2枚、靴下2枚、コート1枚、一応将校ですからそれが支給されました。それと一週間分くらいの米がありましたかな。
私は都城に姉や妹たちが疎開していましたので、すぐそこへ行きました。汽車の切符を買うのに一週間くらいかかりました。疎開者は皆困っておりましたから、殆どやみ商売で食いつなぎました。
私は芋を仕入れて京都まで持って行って売りましたよ。都城で一貫(3・75キロ)6円で仕入れると、京都では60円で売れたですよ。京都にはおばがいましたので、よく行きました。
結局、沖縄に引揚げるまで都城に一か年おりました。私の所はまだよかったですが、年寄りの疎開者はやみ商売もできず、困っていました。芋を買えない人は、ふすまを食べていたんです。塩味だけで。小麦粉をつくる時に出る皮くずですよ。あれは本当に気の毒でした。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008453 |
内容コード | G000000750-0008 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第278号(2000年9月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/09/10 |
公開日 | 2023/12/14 |