「玉城の収容所に送られてはじめて、家族の安否が気になり、逃げ出して佐敷に戻りました。父はもう私のことをあきらめていたようです。」
字新開在住 吉野和子さん(73才)
沖縄戦には第六二師団の看護婦として従軍しました。私は赤十字にあこがれて看護婦になりましたが、沖縄の戦場はあまりにも悲惨で、長い間お話しするのをさけてきました。でも、町史の戦争編ができて皆さんの証言を拝見して、私もようやく今のうちに語らなければという気持ちになりました。
私は真栄城玄明・ウトの三女として冨祖崎で生まれました。兄が1人いて、私は4人きょうだいの末っ子でした。
佐敷国民学校高等科二年を卒業したのは昭和17年(1942)。女学校に行きたくても、父に「女には学問はいらない」と言われ、やむなく一年間は家事を手伝っていました。その間に私は、当時「講義録」と言っていた通信教育のテキストを取り寄せ、ひそかに看護婦を目ざして勉強していました。なぜかよく思い出せないのですが、赤十字に強くあこがれていたのです。(編者注・赤十字は博愛の精神にもとづき、戦時には傷病兵や災害者の救護、平時には一般の治療などを行う世界的な協力組織)
父には反対されましたが、おじの後押しを受けて昭和18年、私は沖縄県医師会付属看護婦養成所の二期生として入学することができました。那覇市上之蔵の学校には毎日与那原まで歩き、与那原からは軽便鉄道に乗って通いましたが、希望に燃えていましたので辛いと思ったことはありませんでした。
ところが、昭和19年の十月空襲で学校が焼け、沖縄は急に緊迫した状況になりました。そして年が明けると、首里の赤田と南風原との境にあった野戦病院に私たちも動員されることになりました。そこは通称ナゲーラと言われている所です。
確か、親の承諾を得て、ということでしたが、その時も私は父の反対を押し切って行きました。二期生からは25人が参加したと思います。私たちが配属された頃は三角病棟のほかに、病院壕を掘っている最中でした。米軍が上陸する前は、アメーバー赤痢や熱発患者がやってくる程度でした。
米軍上陸後、負傷兵がどんどん運ばれてくるようになると、昼夜の別なく看護治療に当たりました。
重症患者の手足は手術というより、切断です。壕内では戦況がどうなっているのか、考える余裕もなかったのですが、負傷者が多くなり、また衛生兵の中からも特攻兵が出て行きましたので、悪化していることは感じていました。それでも、日本は勝つと信じていました。
そんな中、井野という衛生兵が壕入口で直撃弾を受けました。こっぱみじん、とはこのことでしょう。遺体は影も形もなく、肉片が飛び散っているのです。
私は、彼が母からの手紙を読みながらしんみりしていたのを見たことがあり、その姿が印象的だっただけに、戦争のむごさを感じずにはいられません。拾えるだけの彼の肉片を集めて埋葬しました。
5月末頃、ナゲーラの壕から撤退することになりました。重症患者は置いてです。武富の壕までは二人一組で負傷兵に付き添いましたが、その後はただ壕から壕へと逃げ回るだけでした。
6月末か7月頃、大度の浜でとうとう捕虜になりました。玉城の収容所に送られてはじめて、家族の安否が気になり、逃げ出して佐敷に戻りました。父はもう私のことをあきらめていたようです。冨祖崎の自宅で両親に会った時、親不孝な娘だった、と私は心の底でわびていました。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008453 |
内容コード | G000000749-0005 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第277号(2000年8月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/08/10 |
公開日 | 2023/12/14 |