「海岸に穴を掘って遺体を埋めるのですが、私はセメントで墓標を作り、名前、出身地、死亡年月日を書いて立てました」
字仲伊保在住 知念前勇さん(75才)
沖縄戦当時、家族は2人の姉と私の3人だけでした。父は私がまだ母のお腹の中にいた時に他界しました。女手ひとつで私たちを育ててくれた母も、昭和15年(1940)に亡くなったのです。私が開南中学の2年か3年の時でしたね。家の畑は殆ど小作に出していましたので、私はその小作料で学校に行かせてもらっていたのです。家では姉が、県の指導で養蚕をやっていました。
昭和18年(1943)に開南中学校を卒業すると、佐敷国民学佼の校長に呼ばれ、代用教員として母校の教壇に立つことになりました。師範学校を出たわけでもないので断ったのですが、 「日本国民だろう」と、説得されましてね。
しかし1年後に私は代用教員をやめ、嘉手納の青年師範学校に入学しました。それまで農林学校内にあった青年学校教員養成所というのが、昭和19年(1944)に青年師範と改称されたのです。私が入学した頃、青年師範の校舎は別になっていました。近くに製糖工場がありましたが、日本軍が移駐してから、そこは弾薬庫になりました。
さて、青年師範学校に晴れて入学はしたものの、やることは訓練と陣築構築などの作業ばかり。私は在学中に徴兵検査を受けましたが、第二乙種で学徒出陣は免れました。
十・十空襲の時、私はちょうど学校当番の任務についていました。近くの製糖工場の弾薬庫が爆撃を受け、学校もやられてしまいました。燃えさかる炎の中をやっとの思いで脱出し、日本軍の壕に逃げ込みました。そこでは最初、兵隊に銃を突きつけられましたが、青年師範学校の生徒だと事情を説明してやっと入れてもらえました。
年が明けて昭和20年3月、学校はすでに閉校状態となり私は、自宅待機せよ、との命令で仲伊保の自宅に戻ってきました。ところが、いっこうに召集令状はこないのです。
空襲や艦砲射撃が始まってからは、屋敷内に掘った壕でしのいでいました。5月末頃、米軍の上陸用舟艇が馬天方面に押し寄せて行くのが見えました。駐在巡査が回ってきて、 「山の方に避難せよ」と勧告していたのもその頃です。私たちも危険を感じ、外間モー辺りの人工壕に逃げ込みました。しばらくそこにいましたが、投降勧告にきた米軍に発煙筒を投げ込まれ、さらに手登根台上の自然壕に移動しました。フナクブガマではありません。
ある時、部落の年寄が回ってきて「日本は負けた。米軍は何もしないから大丈夫だ」と言うのです。半信半疑ながら「どうせ死ぬなら家で」と思い、山を下りました。私は背も低く、児童生徒のように丸刈りにしていたので、特に尋問もされずにすみました。
7月になり、私たちは字新里の馬場に集められ、与那原からLSTに乗せられました。久志村の大浦崎に上陸し、そこから私たちは二見で難民生活を送ることになったのです。大勢の人がいて、いつの間にか二見は「市」になっていました。
私は市役所勤務でしたが、まずは家を作ることが大変でした。それから、毎日のようにマラリアや栄養失調で死者が出るので、埋葬も私たちの仕事でした。海岸に穴を掘って遺体を埋めるのですが、私はセメントで墓標を作り、名前、出身地、死亡年月日を書いて立てました。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008453 |
内容コード | G000000748-0013 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第276号(2000年7月) |
ページ | 7 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/07/10 |
公開日 | 2023/12/14 |