「沖縄は全滅したとのことで心配しましたが、妻と子どもたちの無事な姿を見て、ホッと胸をなで下ろしました」
字新里在住 玉城安四郎さん(85才)
私は1934年(昭和9)に徴兵検査を受けましたが、第一乙種となり、現役入隊はありませんでした。その頃の玉城家は両親と私たち夫婦、そして私の子ども3人の合わせて7人家族でした。サトウキビづくり主体の農業で、黒糖を年間60挺くらい生産しており、新里では中位の生産高でした。ほかに馬1頭、ヤギ7頭、豚2頭を飼っていたので、朝から晩まで忙しい毎日でした。
しかし生活はあまり楽ではなかったので、父と相談して兄安助のいるフィリピンに行くことにし、1938年(昭和13)に勢理客文強や佐久間助吉と一緒に那覇を発ちました。
兄はミンダナオ島のダバオで麻栽培事業をしていました。私は兄の所の仕事を手伝いましたが、しばらくして兄が沖縄に帰ったので、その後は自分で麻の栽培を始めました。フィリピン人から土地を借りての小作で、小作料として売上高の15パーセントを地主に払うことになっていました。
麻の木は、1.5坪に1本植え付けますが、私は約2万5千本を植えていましたので、約3万7500坪を小作していたことになります(編者注・一般に麻の木は一株、二株と数えた。二万五千本は二万五千株となる)。人夫には草刈り、麻の収穫、皮はぎ、機械操作など、仕事に応じて日給を支払いました。だいたい一人当たり0.8ペソから1.2ペソくらいだったと思います。
麻は繊維にし、ねじれているのを直してから、私の所では、三井物産の大田工場に出荷しました。売上価格は1ピーク(約60キロ)7、8円くらいでした。仕事は順調にいき、3年後くらいで借金を返して少しは生活も楽になりました。
ところが41年(昭和16)12月8日に「大東亜戦争」が勃発したので、私たち日本人は、フィリピン政府によって収容所生活をさせられました。その間支給される食事の量も少なく、苦しい生活を強いられましたが、同月末になると日本軍がダバオに上陸し、私たちはやっと解放されました。
44年に入ると戦局は悪化しました。そして米軍がレイテ島に逆上陸した頃在留邦人の現地召集があり、私も入隊しました。
しかし、日本軍の食糧事情は悪くなっていました。入隊はしたものの、食糧増産のため私は麻山に帰され、そこで陸稲やキャッサバ、野菜などをつくるように言われました。
45年4月末頃、ダバオも危なくなり、私たちは山間部に避難することになりました。山中では軍人も民間人も、ひどい食糧難でした。8月、日本が降伏したとの情報が入り、米軍からの呼びかけで山を下りました。そこで今度は米軍の捕虜となり、収容所に入れられました。
引き揚げてきたのは46年(昭和21)でした。沖縄は全滅したとのことで心配しましたが、妻と子どもたちの無事な姿を見て、ホッと胸をなで下ろしました。
玉城安四郎さんの証言は、次回発行予定の「移民編」に収録します。
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問い合わせ 企画財政課 947-6234
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008453 |
内容コード | G000000747-0005 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第275号(2000年6月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/06/10 |
公開日 | 2023/12/14 |