なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「私の一家はパラオから全員無事に引揚げてきたのですが、沖縄戦で両親と長女姉、次兄とその子の5人が戦死していたのです」

字兼久在住 宮城武雄さん(91才)
1938年(昭和13)、私は南洋群島への出稼ぎ募集に応じて、パラオ諸島のペリリュー島に渡りました。南洋興発株式会社が請負った海軍の仕事で、飛行場建設工事の人夫でした。
その時私は、満二九歳。妻子がいましたが、最初は様子が分からないので一人で行きました。
ペリリューはパラオ諸島の南にある小さな島で、早くから南洋興発がリン鉱の開発をしていたようです。岩山が多く、島全体がジャングルにおおわれていましたので、飛行場の建設工事は大変厳しい作業でした。私は岩石をトラックに積み込んだり、地ならしをする作業班に回されました。2年後に飛行場が完成したので、私はマラカル島に移り、同じく海軍の仕事で弾薬庫の建設に従事しました。
その頃、パラオの中心地であるコロールの町にいたいとこが一時帰国することになりました。ちょうど妻子の呼び寄せを考えていたので、そのいとこに頼んで妻たちを一緒に連れてきてもらいました。長女と二女、それぞれ5歳と3歳になっていました。
1年後に、私は軍をやめてコロールに移り、現地住民から借りた町はずれの土地で野菜づくりをしながら、大工の仕事もしていました。妻たちを呼び寄せた翌年には太平洋戦争が始まりましたが、しばらくはそれでも平和な暮らしができました。その間にコロールで、三女と四女が生まれました。
パラオの初空襲は44年(昭和19)の3月末で、何百という数の飛行機で空がまっ黒になるほどでした。戦争は避けられないと思い、その後パラオ本島のガラスマオという所に避難しました。私はそこで民間の製材所に勤めましたが、間もなく現地召集され、陸軍麻生隊に配属されました。最初は輸送班でしたが、大工の経験者ということで後に私は兵舎の建設班に回されました。
そのうちにパラオ各地から、日本人家族や現地住民が本島に疎開するようになりました。島内には朝日村、清水村、瑞穂村などの名前のついた日本人の開拓村がありました。空襲がひんぱんになったので、私は所属部隊のあった朝日村の近くに家族を疎開させました。
戦争中の食糧難は悲惨なものでした。私が入隊した時から米は不足していましたが、だんだんそれもなくなって食べるのはサツマ芋の葉ばかりでした。
兵隊は皆やせて、あばら骨が洗濯板のようになりました。栄養失調で亡くなった人が多いのです。私はあまりのひもじさに、毎晩眠れないほどでした。
栄養失調で子どもも相当亡くなりました。女たちの元気な者は農耕隊をつくり芋などを植えていたようですが、植えたじきから葉をむしり取って食べるというありさまでした。妻は子どもたちのために、部隊の倉庫にしのび込んで米を取ってきたこともあったそうです。
パラオ本島には米軍の上陸はなかったのですが、空襲や艦砲射撃はひんぱんでした。私は一度、作業中に米軍の飛行隊に見つかり、機銃されながらもタコ壷に入って難を免れたことがあります。
45年(昭和20)12月、私たちはパラオを発ち久場崎港に上陸しました。佐敷にはすぐ戻れず、知念村や大里村の収容所を転々しました。私の一家はパラオから全員無事に引揚げてきたのですが、沖縄戦で両親と長女姉、次兄とその子の5人が戦死していたのです。

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大分類 テキスト
資料コード 008453
内容コード G000000746-0006
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第274号(2000年5月)
ページ 4
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2000/05/10
公開日 2023/12/14