「沖縄玉砕の話を聞いていたので、私たちは家族のことが気になって、それどころではありませんでした。」
字冨柤崎在住 玉寄トヨさん(72才)
私は佐敷国民学校高等科卒業後、軍需工場勤務を希望して名古屋に行きました。1942年(昭和17)の4月頃のことです。
沖縄から最初の女子艇身隊が行くのは、44年ですか。私たちのことも艇身隊と言っていました。卒業前に知能テストのような適正テストのような、とにかく試験を受けて行きました。その時名古屋と滋賀、奈良のどこを希望するか書く欄があり、私は冨祖崎出身者が多かった名古屋を希望したのです。
私の父楚南了治は、私がまだほんの子どもだった頃、佐敷村の収入役を務めた人で、とても厳しかったのですよ。私はその父に女学校に進学するように言われ、私も最初はそのつもりで在学中は受験組に入り、安次富嘉郎先生の指導を受けていました。
けれど途中から私は、受験を取りやめました。軍需工場に応募したのは学校からの勧めがあったこと、そして長女のツル子姉が大阪にいたからです。
厳格な父はこれに反対でした。「あんたも姉さんみたいに、内地に行って帰ってこないつもりか」と言い、私が服などの買い物をしようと思っても、なかなか金をくれない。しぶしぶながら父が金をくれたのは、出発の5、6日前でした。
行く前に那覇の昭和会館という所で、1週間ほど講習を受けました。冨祖崎から私のほかに屋嘉部カメさん、真栄城ヨシさんが一緒でした。
神戸に着いたら、姉が迎えにきていました。と言っても姉の会社は大阪で私とは別ですから、港で会っただけです。姉は内地の人のような口調で、「お父さんお母さんは、まだ百姓しているの」と私に聞きました。姉の言う「百姓」という言葉が最初、私にはよく分かりませんでした。沖縄では「ハルサー(畑仕事をする人、つまり百姓)」としか言わなかったので、私は何だか恥ずかしくなって、久しぶりに会う姉とはあまり話もできませんでした。
会社は名古屋市北区織部町の、大東工業株式会社でした。私たちが行く前まで、この会社は東京モスリンと言っていたらしいです。糸をつくることから布を織ることまで、工場の仕事はいろいろありましたが、その頃は戦争中ですから兵隊の服、軍服をどんどんつくっていました。
勤務は2交代で昼勤は8時~5時、夜勤は5時~11時までとなっていたはずです。給料は覚えていませんが、手渡し金が少しあって、あとは全部貯金させられました。任意貯金と言っていましたが、会社が天引きしていたのですから、強制貯金と同じです。会社は、「弾丸切手」と宣伝していました。
戦争中ですから、私たちには、何事も「お国のために」「欲しがりません勝つまでは」という精神が、すっかりたたき込まれていたんですよ。私たちはもんぺに、日の丸の鉢巻きをしめて、正月休みもないくらいに働きました。会社内に「機織り神社」というのがあって、寮から工場への行き帰りにはいつもそこに寄って、「必勝祈願」をしていました。
勝つと信じてきたのに、日本が負けたと知った時は泣きましたよ。それでもほかの人は「終戦になった」と喜んでいましたが、沖縄玉砕の話を聞いていたので、私たちは家族のことが気になって、それどころではありませんでした。
玉寄トヨさんの証言は『佐敷町史四戦争』からの抜粋です。町史は、企画財政課で発売中。
町民は、1冊2,000円でお求めできます。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1MbUgsFN0E4Jbdy7SEPCrZL4p9QRKCS2x |
---|---|
大分類 | テキスト |
資料コード | 008453 |
内容コード | G000000745-0006 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第273号(2000年4月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/04/10 |
公開日 | 2023/12/14 |