なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「あのまま金武にとどまっていたならマサ子は無事だったのではないか、と侮やんだ事ともありました。」

字津波古在住 大城トミさん(74才)
実家は字津波古の(座間味小)で、私は大城蒲、ウシの五女として生まれました。両親が若い頃に首里から移り住んできたため畑はなく、父は卸商、母は裁縫をして生活をしていました。八人きょうだいだったため、兄や姉は出稼ぎに、私も小学校を5年で中退して、台湾にいたおじの大城清の家に奉公に出ました。
17歳の時、両親から結婚するようにとの連絡がきて、沖縄に帰りました。相手は同じ門中の大城正銀でした。夫は優しくて、働き者でした。夫は義父太郎とともに鍛冶屋を営んで、生活は安定していました。1944年(昭和19)5月には、長女マサ子が生まれました。
その後、次第に戦争に備えて軍の徴用が多くなり私も壕堀り作業に出ることがありました。義父はずっと鍛冶屋として働き、徴用されることはありませんでした。しかし、夫は兵隊にとられてしまいました。私は義母ウトや義姉ヨシたちと、さらしに赤い糸で「武運長久」と刺しゅうしたお守リをつくり、夫に渡しました。
その年の十・十空襲以降、米軍の空襲は次第に激しくなっていました。
45年(昭和20)に入リ、役場から金武村へ疎開するようにとの連絡がきました。家を守るため残ると言う義父以外の家族、そして私の実の姉崎山ウシ親子と一緒に歩いて金武村を目指しました。
金武に着いてからは義母たちと別れ、姉ウシらと一緒に過ごしました。最初はタケーシという地元の人の家に割当てられました。その時は食糧を分けてもらい、あまり苦労することはありませんでした。しかし金武も危なくなって、私は姉の家族と別れ、再び義母らと一緒に、義母の妹喜屋武ツル子が避難している今帰仁村の呉我山へ向かいました。
ある日、空き家になった小屋で休んでいると、突然近くに爆弾が落ちました。その破片が小屋の壁を突き破って、私たちの所に飛んできました。私はとっさに伏せて頭を布団で隠しましたが、弾は私の背中をかすっていきました。手のひらほどの傷でしたが、私は血まみれになってしまいました。その時、マサ子も爆風を吸い込んでしまったのですが、けがをした私は娘のことを考える余裕もなく、かなり動揺していました。
義母がマサ子を連れ、私は壕に運ばれました。しばらくして、壕にやってきた米兵に投降するよう呼びかけられ、捕虜になりました。私は担架に乗せられ、羽地の米軍の病院に運ばれました。
ほかの病院で手当てを受けていたマサ子が亡くなったことを知ったのは、羽地に着いてからでした。
マサ子の遺体は義姉が埋葬してくれたそうです。その後、私は古知屋(現・宜野座村)の米軍病院に移され、さらに2か月ほど治療を受けました。
その頃には、佐敷の人たちも久志村に移動させられてきていました。義父も無事で、お互いに再会を喜びました。翌年には兵隊に行っていた夫が、学童疎開していた義妹と一緒に引揚げてきました。
あのまま金武にとどまっていたならマサ子は無事だったのではないか、と悔やんだこともありました亡くなった娘のことを思い出すと、今でもつらい気持ちです。
※大城トミさんの証言は、『佐敷町史四戦争』335ページに収録されています。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1dCHot7DN5VXixrGlWowqJzomd2lCFu16
大分類 テキスト
資料コード 008452
内容コード G000000740-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第272号(2000年3月)
ページ 3
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2000/03/10
公開日 2023/12/14