「私たちが最後にいた壕では、米軍の投降呼びかけに応じなかった人たちが『自決』したり、海に飛び込んだりしたそうです。」
字佐敷在住 平良亀吉さん(72才)
私の父は1932年(昭和7)サイパンに渡り、南洋興発株式会社の小作人としてサトウキビ作りをしていました。翌年、父の呼び寄せで私と母、兄の3人もサイパンヘ渡りました。私たちは東村チャッチャの上ラウラウに落ち着きました。そこは南洋興発の第二農場で、粗末なトタン屋根の家が私たちの住まいでした。
サイパンで、私の下に6人の兄弟姉妹が生まれましたが、43年(昭和18)に小さい頃から体の弱かった兄が、病気で亡くなってしまいました。私は家で家族用の野菜作りや家畜の飼育をしていましたが、44年、満17歳になった時、午前中は父と同じ農場で働き、昼から青年学校に通いました。
隣組への割当てだといって、島の北端のバナデル飛行場の建設工事に動員がありました。私も一度はその作業に出ました。それからしばらくたって6月11日の昼頃、突然空襲警報が鳴り、米軍の空襲が始まりました。
米軍のサイパン島上陸は6月15日でした。それから敵が間近に迫っているということで、避難命令が出ました。
最初はハグマン山の自然壕に避難しました。空襲に加えて、艦砲射撃も激しくなりました。この壕で隣組の人たちと二晩過ごしました。3日目に艦載機の砲撃を受け、命からがら逃げ出しました。
逃げているうちにいつしか、隣組の人たちとは離ればなれになっていました。次に見つけた自然壕はかなり大きく、大勢の避難民でいっぱいでした。
私の家族は壕から壕へ五か所も移動しました。その間、けが人や散乱した死体を踏み越えていきました。何番目の壕だったか覚えていませんが、軍が使うというので壕を出されたこともありました。
四番目の壕にいた時、朝、小用をたしに壕の外に出たら、数十メートル先に米軍がいました。私はびっくりして壕には入らず、そのまま逃げ出してしまいました。一日中逃げ回ってやっと別の壕に入れてもらいました。
すると翌日、父と弟と二人の妹がその壕に入ってきたのです。父もまた私と同じことをしたようで、父が逃げた時すぐに弟たちも後を追ってきた、ということでした。
翌日私たちはこの壕を出て、第五農場のタロホホに出ました。そこにテント小屋があったので、中をのぞいてみました。米兵が一人いました。私は思わず敬礼をしました。米兵も敬礼しました。
とうとう私たちは捕虜になり、難民が集められている所に連れて行かれました。壕に残してきた家族ともそこで再会しました。母たちは私や父たちより先に、捕虜になっていたのです。
私たちが最後にいた壕では、米軍の投降呼びかけに応じなかった人たちが「自決」したり、海に飛び込んだりしたそうです。そして壕は砲撃され、中にいた人たちは全滅したということでした。私の家族は全員無事でした。
その後、米軍のトラックでススペの収容所に移動させられました。そこに一年余りいて、1946年(昭和21)5月頃と覚えていますが、ガラパン港から直接久場崎港に引揚げてきました。
※平良亀吉さんの証言は、移民・出稼ぎ地での体験として『佐敷町史四戦争』の187ページに収録されています。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1-gVgwHOnxTxT43Xn24yphfB7L28-pKmj |
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008452 |
内容コード | G000000739-0007 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第271号(2000年2月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2000/02/10 |
公開日 | 2023/12/14 |