なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「沖縄出身者が直撃弾を受け、2・3人亡くなりました。焼け跡で板切れなどを集めて薪にし、皆で亡くなった人の遺体を火葬にしました。」

字仲伊保在住 小波津照子さん(81才)
私は佐敷尋常高等小学校を卒業して、大阪の堺福島紡績に出稼ぎに行きました。2人の姉がその会社にいたので、私も呼ばれて行ったのです。1933年(昭和8)頃のことです。
17歳で沖縄に帰ってきてから、結婚するまでは青年団、その後は国防婦人会の活動に励みました。
青年団としては農事訓練などがあったと思いますがどのようなものだったか、訓練の細かいことは忘れました。はっきり覚えているのは、村の派遣で県庁まで行き、機織りの講習を受けたことです。
1937年(昭和12)5月に、私は同じ門中の二つ年上の小波津守一と結婚しました。夫は字佐敷の仲喜友名グヮーにイリチリーしていました。
ところがその後、「支那事変」が始まり、翌年には夫に召集令状がきました。夫が行った時、字冨祖崎の屋嘉部景典さんたちが一緒でした。その頃から佐敷からも出征兵士が増えるようになりました。出征兵士の見送りはとても盛大で、小学校の運動場に村民が集まり、皆で津波古のシンリモーグヮーまで行列して見送っていました。家族は港まで行きましたがね。
婦人会は白いエプロン(割烹着)の上から、「大日本国防婦人会」と書かれた白いたすきをかけて参加しました。戦死者の遺骨が帰ってきて、村葬が行われる時も同じでした。
夫が出征したあとも、私は国防婦人会の活動を続けました。時には徴兵検査の会場まで出かけて行き、検査官の湯茶の接待をすることもありました。
40年(昭和15)1月、夫が戦地から無事に帰ってきて間もなく、私たちは大阪に渡りました。大阪には親戚や知り合いも多く、夫はすぐに、鉄工所の旋盤工の仕事につくことができました。住まいは市内大正区の三軒屋という所でした。
2年後の42年(昭和17)、私たち夫婦に初めての子が生まれました。長男庸夫です。初産なので、この時は沖縄に帰って出産しました。
戦争(太平洋戦争)は始まっていたのですが、まだ船は安全でした。産後2か月で、また大阪に戻りました。
夫の勤め先が、堺市の大阪軽合金株式会社に変わりました。そこは大きな軍需工場でした。通勤が大変なので間もなく堺市の東湊に引越しました。
44年(昭和19)に入って防火、防空の訓練がひんぱんになりました。その年に二男が生まれたので、私はたまにしか出ませんでしたが、堺でも防火訓練の時などは、国防婦人会のたすきをかけてやっていました。年明けの45年からは空襲警報発令が多くなり、心細い毎日でした。6月頃から、堺の空襲は一段と激しくなりました。その時の空襲で、逃げ遅れた近くの沖縄出身者が直撃弾を受け、2,3人亡くなりました。焼け跡で板切れなどを集めて薪にし、皆で亡くなった人の遺体を火葬にしました。
8月15日、日本が負けたことを知りました。沖縄が全滅したといううわさがあって、心配でした。
終戦前に、夫が妹のトミ子とタケ子を宮崎の学童疎開先から引取ってきたので、家族が増えました。
終戦後は食糧不足で大変でしたが、夫が大分県辺まで買出しに行ったりして、何とか暮らしていました。
引揚げたのは46年11月頃です。帰ってきてから、小波津の父が戦死したことを知りました。

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大分類 テキスト
資料コード 008452
内容コード G000000736-0007
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第268号(1999年11月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1999/11/10
公開日 2023/12/14