なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「パラオ本島の戦死者は、ほとんど飢えと栄養失調による戦病死だったと思います。」

字仲伊保在住 外間尹徳さん(79才)
私は数え19歳で、南洋群島のパラオに出稼ぎに行きました。「支那事変」が始まった年の、3月頃だったと覚えています。役場を通して募集があって佐敷からも何人か行きましたよ。
パラオには島がたくさんあります。そこのマラカル島という所に、南興水産という南洋興発の関連会社のかつお節工場がありました。最初私は、この工場で約1か年働きました。
その頃南洋には、いくらでも仕事の口がありました。かつお節工場よりもリン鉱の方が賃金がよかったので、トコベー島のリン鉱で1か年半くらい仕事して、それから今度はペリリュー島に移り、飛行場建設作業とリン鉱の仕事につきました。
その間に私は満20歳になり、佐敷の役場から徴兵検査の知らせがきましたが、パラオでずっと猶予願いを出していました。しかしペリリュー島を引揚げて、土木作業をしながらコロール(パラオの中心地)の町や、パラオ本島のガラスマオを転々としている間に、私はとうとう現地召集されてしまいました。1944年(昭和19)の初め頃でした。
私の所属部隊はシマ隊と言って、鹿児島の人が隊長でした。私はそのシマ隊の計理部に配属されました。計理部での私の仕事はジャングルに入って木を伐採してきたり、材木に加工したり、そういうことが主でした。
仕事そのものは別にどうということもなかったのですが、隊の中に沖縄人と朝鮮人をばか扱いする軍曹がいて、私はよく反抗しました。その軍曹が、「沖縄はパラオくらいあるか、偉い人もいるのか」と軽べつするように言うので、私は「漢那中将という人もいる。何も、内地の人ばかりで戦争やっているんじゃない」と、言い返していました。
米軍はパラオ本島には上陸しませんでした。しかし空襲や艦砲射撃がひどくて、兵隊も民間人も皆、ジャングルの中に避難していました。山ごもりが長く続いたのでそのうち食糧がなくなって、それで皆苦労しました。
こんなことは言いたくないのですが、部隊本部は山の中に遊廓の女性を連れていて、一般兵の食糧を節約してもこの女性たちには銀飯をくれていました。
コロールに遊廓があったから、そういう人たちが山の中まで連れてこられたのではないかと思います。
私たちは、食べ物探しで山の中を歩いて、カエルやネズミ、カタツムリ、ヘビなどを見つけしだい、何でも取ってきました。岩場の絶壁から、必死の思いで蜂の巣も取ってきました。
キツツキのように、木の穴にもぐっているカモメを取ろうとして、その木から落ちて負傷した戦友がいました。栄養失調で体力が弱って、木に登ることもできなかったのです。サツマイモの葉っぱさえ取りつくされて、私たちはマングローブの実というか新芽というか、それもあく抜きして食べました。
野戦病院には下痢患者がいっぱいしていました。
これは皆、栄養失調の患者でした。パラオ本島の戦死者は、ほとんど飢えと栄養失調による戦病死だったと思います。
引揚げの時はアイライという所から米軍のLSTに乗せられ、直接久場崎港に着きました。私たちは一番の船でしたが、帰ってきてからも食糧難で、パラオと同じように沖縄でもカタツムリを食べることになるとは、思ってもみませんでしたよ。

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大分類 テキスト
資料コード 008452
内容コード G000000734-0003
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第266号(1999年9月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1999/09/10
公開日 2023/12/14