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証言特別編 長崎における被爆体験談(昭和58年)

宮崎県高千穂町 甲斐ミキさん

はじめに
長崎に原子爆弾が投下されて、もう38年経過しました。
被爆二世と言われる3人の我が子も断片的には、原子爆弾のこわさを身近に聞いているでしょうし、墓参りに帰省した時、同年同月死亡の墓石の法名を見ては、無口になりいいしれぬ感慨にひたる日もあります。
思い出したくない、話したくない、同情を受けたくない。
だけど、多くの人々の勧めもあり、3人の我が子のために、又後世のために悲しみをこらえ、何日もかかって体験談をまとめてみることにしました。
しかし、その悲惨さは私には、とても筆にあらわし得ないものがありますことをお断りいたします。

今日もみんな無事だったね
私の父が、昭和16年(1941)佐賀営林署長を最後に定年で退職し、長崎市の木材会社に勤めたので、当時8人家族の我が家も長崎市城山に住む事になりました。
そのため私は、その年の4月長崎市の鶴鳴高等女学校に受験し入学できました。昭和16年の事ですから太平洋戦争のはじまった年です。女学校1年生・2年生のころは、時折5㎞位離れた農家に勤労奉仕(人手不足の農家に加勢)として出かける日もありました。
3年生になってからは、戦争はますます激しくなり、私たち女学生全員が「学徒隊」として、ほとんど毎日、軍需工場に動員されました。私たちの学校は、長崎造船所内の旋盤工員としてハチマキをしめ、防空ずきんを背にかけ、国防色の服装に身を固め数千台も並ぶ機械、そのごう音の中で、くる日もくる日も、汗と油にまみれた作業の毎日でした。
4年生になり、三菱電機製作所にかわり、青写真を見ながら飛行機の部分品を作る事になり、みんな一生懸命でした。
「勝つまでは欲しがりません」という合言葉のもと、ほこれをつむいだ服装、破れかぶれのズックをはき、空腹にも耐えながら頑張らざるを得ない毎日でした。そんな歳の可れんな私たち、その仕事に生き甲斐を感じて働いていた工場にも、敵機は容赦なく一日に何度も何度も爆撃をしてきました。
今日も又家族みんなが無事であったと確かめ合う日が多くなってきました。かぼちゃや、芋ばかりに塩や大豆かすをまぜた、余り味のつかない雑炊を、うす暗い電燈の下ですすりあいながらも、みんなの無事を何よりも喜び合う日々でもありました。ふかした一つの芋でも、小さく分けあって、みんなで皮まで食べる日もめずらしくはありませんでした。

あの忌まわしき8月9日
忘れもしません。昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、広島(8月6日)に続いて長崎市浦上の上空にも米軍による2発目の原子爆弾が投下されました(当時は原子爆弾とはわからなかった)。人間としてこれ程残酷非道な殺りくはありません。一瞬光った稲妻が、熱線が、放射線が、爆風が、山や草木を、建物を、わが家を数10万の人々の生命をうばってしまいました。
私の居た電機製作所は、一撃の爆風で建物は倒れ、逃げ場を求めてとにかく必死で、近くの防空壕に飛び込みしばらくして外に出た時、今朝まで緑青々だった周りの山々は焼け続け、電車はこわれ、鉄骨の建物やレールはくねり、黒焦げになった死人の群々。そこにも、ここにも、生き延びた血だるまの人々、泣き叫ぶ声…。ぼろぼろになった服を脱ぐ事も知らず、水を求めて、ある人は川に、ある人は山に…。「助けてー!」「助けてー!」とかすかに絶叫しつつ、はい廻る人々…。
目の前で息たえた人、人、人。
蒸しかえる夏の暑さと、人畜の血液と、言い知れぬ臭気と、焼け焦げる建物の炎の中を歩きました。ところどころにある防火用水の泥水の中に、防空ズキンをつけ、ぬらしてかぶりながら、燃え付きそうな火の粉を払いながら、ただ何もわからず命からがら、人の動く方向に…、稲佐山に向けて逃げました。自分でも、どこをどう歩いたのか良くわかりません。
とにかく爆心地より我が家らしき跡地に、タ方やっとの思いで辿リ着いた時、その辺一帯は、今朝のようすは全くなく、見る影もなく、めちゃめちゃにこわれ、ことごとく焼けてくすぶり、そこにも、ここにも人間の地獄絵さながらの有様でした。死人、けが人、火傷で皮膚がただれ誰が誰やらわからない人たち、暑さからのがれるため、又水を求めて用水路らしき所にたむろし、うめく人の群。
「オルガン」の好きだった妹(女学校3年生)は、焼け落ちた家の下敷きになり即死し、とても私になついていた弟(7歳)は、全身火焼で白くなって死んでいました。「夕やけ、こやけ」の歌をよく口ずさんでいたその上の弟(9歳)も、やはり火傷で全身真白、虫の息、病院も医者も、看護婦も近くになくなった今は、手のつけようがなく、じっと見守る外にはそのすべがありませんでした。そして翌日亡くなりました。
蒸し暑く死体の臭いのする狭い防空壕の中で、身動きもままならぬまま、ローソクの様になった弟たちの手を、そっとだきしめてやるのがせめてものお通夜でした。
勝気だった妹(小学校6年生)は、手、首、足に火傷があり、火傷が深く食い入るかのようにただれて広がり、声が声にならず水を求め続けました。水を見付けタオルで水をひたしても飲みきらず10日位目に破傷風となり亡くなりました。

姉も又死んだ
8人家族の我が家も一度に4人の兄弟を亡くしました。父は原爆中心地の一山裏側の町に居たし、母は隣組で作った防空壕の中の作業をしていたために助かりました。母は防空壕の中だったが、一撃の稲妻と背中から熱湯をかけられたようだったと言っていました。父、母、姉、私の4人が辛うじて助かったのが不思議でした。
火事場の跡のくすぶりと、腐れていく人畜の臭いと、蒸しかえる暑さで、防空壕の内も外も火傷の人々、傷の手当をする人もなく、傷口にむらがるハエを追う気力もなく、瀕死の人々が「ミキちゃん!助けて!」と叫び、又必死にすがる眼差を見て私は、誰、彼の区別もなく、どうにか生きている人々の看病や手当、水さがしに追われ、死んでいった4人兄弟の事など考える余裕はありませんでした。
罪、とがのない人たちが、子供たちまでが何故こんなムゴイ死に方をしなければならぬのか、兄弟仲が良いと言われた私たちの兄弟が何故死なねばならぬのか。しかも空襲は、原爆投下後も、これでもかと思わせよがりに続きました。
2,3日後に諌早から、炊き出しのおにぎりが届いた時には腐っていました。しかし食べる物がないため、それを水でとかし雑炊にして、そばに居る人みんなで食べました。又誰も区別なく、無惨な死体の始末に何日もあたりました。
「艇身隊」として三菱兵器製作所に行っていた姉(21歳)は、大変きついと言っていました。その姉の勧めもあり父、母、姉、私の4人で父母の生地、高千穂に帰る事にしました。
苛立ちとも悲しみともつかぬ思いを、誰にもぶっつけようがないまま、焼け残った古材を集め涙をこらえながら、火葬場を作り、市役所の許可を得て、冷えきった4人の遺体の火葬を父母らとしました。黒焦げのアキカンを見つけだし4人の遺骨をおさめ、しっかりとかかえ、着のみ着のままで3日もかかって、やっとの思いで高千穂に帰りました。
原子爆弾投下後10日近くもたったというのに、まだ、そこここに、淋しく火葬をする人影や、誰も見てくれない腐った死体を見ながら、4年間住みなれた、懐かしの長崎、今は廃虚と化した長崎をあとにしました。いつの日にか、必ず長崎に行こうと思っていましたが、どうしても行く気になれないまま今に至りました。
外見では、体に異常はないと思っていた姉が、日増に「きつい!きつい!」と言っていました。高千穂に帰る途中から少しずつ、頭がかゆいという度に頭の毛が抜け始め、発熱し、やっとの思いで帰りついた高千穂に着くと同時に床につきました。頭の毛は全部抜け、赤色の小豆大の班点が全身に出て、高熱が続き、医者の手当も全く効果が無く、口から鼻から尻から、驚くほどの真っ赤な血が出っぱなしでした。つまり原子病です。父や母の生まれた里、静かで水清く神話伝説の高千穂、夢に見た初めて見る父母の生地、その高千穂の風情を味わう事も無く、帰って7日目に亡くなりました。
その頃から私は、左の足に受けた爆風によるガラスの傷が化膿し痛みましたが、姉の看病に気をとられて、自分の足の痛みは気になりませんでした。最後まで意識のはっきりしていた姉が息をひきとる寸前、「ミキちゃん、亡くなった兄弟の分まで、しっかり頑張ってね」と言い残し、けいれんがひどくなり亡くなりました。その時の言葉が、昨日の事のようです。

古傷
高千穂では、親族をはじめ地域の方々まで、本当に良く世話をして頂きました。でも、月日がたつにつれ母方の里も引揚者・復員者が増え、いつまでも甘えているわけにもいかず、倉庫を借りて住まいにしました。親族の持ち寄ってくれたちぐはぐの衣服をつけ、父と母と私の3人で生きるために親戚の荒地を借り受け、くる日もくる日も開墾し、甘諸と野菜をまず作りました。農繁期となれば、親戚の農家へ加勢にも行きました。
しかし、日がたつにつれ、8月9日のあの噴火口からはい出たような人々!「助けてくれ!」「きつくてたまらん!」
「このナタで早く俺の首をはねてくれ」と、すがりついた近所の子供の姿など、原爆当時の日の事が、地獄絵が頭から離れませんでした。
5人兄弟の一人一人の思い出が、浮かんでは消え、忘れようとすればするほど思い出されて、どうにも寝つかれない日が何日もありました。今も当時のことを良く覚えていますし、思い出すと寒気がします。私よりもっともっと、父や母の悲しみは察することが出来ました。父も母も私も、つとめて原爆の事や亡くなった兄弟の事は、自分からはお互いに口にはしませんでした。人々の同情が、かえって古傷をあばく結果となった日もたびたびありました。
あの戦争さえなければ、罪やとがのない5人の兄弟も亡くならなかったのだと思うと、くやしくてなりません。
何一つの補償もなく、結局犬死にだったと思えてなりません。今生きていれば、姉が、妹が、弟が何才になると思えばたまらなく、わびしくなります。

さいごに
後日、長崎に投下された原子爆弾は、長さ3・2m、直径1・5m、重さ4・5屯のプルトニューム爆弾で、爆発力は、TNT火薬二万屯に相当するということであったこと、しかもこの小さい一発の爆弾で、約14万人とも18万人にもいう人々の命を一瞬にして奪い焦土と化した長崎市であった事も知りました。又原爆投下の前日、米軍機によっ原子爆弾の威力と広島に投下した事実をのべた予告のビラ、戦争中止の勧告とポツダム宣言の要旨を書いたビラが投下され「即刻都市より退避せよ」と告げられていた事も全く知らされていませんでした。
戦争さえなければ、原子爆弾が投下されてなかったら、5人の兄弟は死ななかったはずです。それを思うと残念でなりません。又私の体についても3人の子供についても、被爆二世といわれると、明日をも知れぬ原爆症、原子病の恐怖に悩まされてきた38年間でもありました。

今月の証言は特別編として、佐敷町の姉妹都市宮崎県高千穂町在住の甲斐ミキさんが
昭和58年に綴った、長崎での被爆体験談を一部抜粋して掲載いたしました。
沖縄では余り知られていない、本土での戦争体験も知ることで、戦争の悲惨さ平和の尊さを改めて感じることができたら…と思います。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1lNqXLCpsuLfT04GA9j_aRZjDLtl8RAjw
大分類 テキスト
資料コード 008452
内容コード G000000733-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第265号(1999年8月)
ページ 6-8
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1999/08/10
公開日 2023/12/14