なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「自分の腕に抱いていながら、大事な子どもの命を奪われるなんて…。私はあの時フリムンのようになっていました。涙も出ませんでした。」

字津波古出身 与那嶺フミさん(76才)
私は20歳で結婚し、沖縄戦の前の年に長男正宏をもうけました。正宏は私たち夫婦の、初めての子どもでした。
1945年(昭和20)3月になると、女、子どもの山原への疎開が始まりました。その頃、正宏の父親は防衛隊にとられ、その弟も南方に出征しておりましたので、家にいたのはしゅうとめと私、そして正宏の三人だけでした。しゅうとめは疎開せず、家に残ることになりました。
出発した日は、はっきり覚えていませんが、字津波古の人たちは三月末頃、空襲や艦砲射撃が始まってからみんな慌てて行っています。私たちもその頃だったと思います。
正宏は生まれてまだ九か月でした。その正宏のほかに私は実家(東前瀬底)の妹たちツル子、美代、光枝の三人を連れていました。一緒にいた母が荷物を取りに佐敷に引き返し、戻ってこれなくなったのです。母は一歳の弟をずっとおぶっていました。
私たちの疎開の割当て地は、金武の山の中の開墾地でした。そこに急ごしらえの避難小屋が用意されていました。
米軍が上陸して、避難小屋の周辺もだんだん危なくなってきたので、私たちはさらに奥地のブート岳の方に移動することになりました。子どもたちと一緒にフトンを担ぎ、雨にぬれながら山道を歩きました。
ブート岳にたどり着いたと思ったら、その頃5歳の妹光枝がよく泣いて、周りの人たちに「泣く子は殺せ」と、何度も言われました。私はそのたびに必死に光枝をなだめました。けれどしまいには、どうせ死ぬなら思いきり泣かせよう、と泣くがままにしていました。
何日かたって、私たちはブート岳で捕虜になり、金武の本部落の民家からさらに移動して、漢那のテント小屋に収容されました。すでに大勢の人が、難民生活をおくっていました。戦争はもう終っているようでした。
ある日、そのテント小屋で私は正宏を抱いて寝かしつけていました。正宏は軽い寝息をたてて、私の腕の中にいました。ちょうどその時でした。いったい誰が撃ったのか山の方から流れ弾が飛んできて、私の右腕からお腹をかすめ、私の腕で寝ていた正宏を直撃したのです。それは一瞬の出来事でした。
正宏はその瞬間「ウッ」と声を出したように記憶していますが、泣き声はありませんでした。
私は自分もけがしたのですが、それも分からなくなるくらい気が動転していました。周りの人が正宏を病院に連れて行こうとしても、私は正宏を離しませんでした。二世の通訳が強引に病院に連れて行きましたが、正宏は即死状態だったそうです。
自分の腕に抱いていながら、大事な子どもの命を奪われるなんて…。私はあの時フリムン(気が狂った状態)のようになっていました。涙も出ませんでした。こんな時は不思議と涙も出ないのです。
けれど、悲しんでも正宏は帰ってきません。私はまた小さな妹たちの面倒を見ないといけなかったのです。やがて、久志村大川に実家の母たちがきていると聞き、私たちもそこに移りました。
戦後、私は正宏の父親とは別れました。戦争中のことは思い出したくないのですが、私のような体験を繰り返さないようにと願ってお話ししました。

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大分類 テキスト
資料コード 008452
内容コード G000000732-0003
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第264号(1999年7月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1999/07/10
公開日 2023/12/14