「先生が『死ぬ所はいくらでもある、ここから出よう』と声をかけたので、私たちは炎の中を一気にかけ抜けて外に出ました。」
字津波古在住 瀬底幸子さん(71才)
沖縄戦の前、私は県立首里高等女学校の4年生でした。看護教育を受けていた私たちは、1945年(昭和20)3月5日から首里鳥掘にあった山城医院などで合宿訓練を行い、そのまま第62師団の野戦病院に看護隊として配属されました。
病院壕は首里と南風原の境を流れるナゲーラ川沿いにありました。現在の高速道路、首里インターの入口付近です。3月27日は私たちの卒業式でした。
空襲や艦砲射撃が始まっていたので、式は夜間、ローソクをつけてひっそりと行われました。
式がすんで受け取った卒業証書を、私は家に届けたいと思いました。私は5歳の時からおじの山城武吉の養女になっていました。養父は私の女学校卒業を楽しみにしながら2年前に他界していたので、霊前にその証書をお供えし、養母にも卒業の報告をしたかったのです。
佐敷出身の同期の仲村渠愛子さんと二人、やみ夜の中を佐敷目指して走りました。
途中、与那原の町が燃えていました。怖くなり引き返そうと思いましたが、二人で励まし合ってやっと家に着きました。
仏壇に手を合わせてから、私たちはすぐにまた必死の思いで、病院壕に走って戻りました。
4月1日の米軍上陸後、ナゲーラの壕には負傷兵がどんどん担ぎ込まれてきました。私たちは患者の治療を一緒に手伝ったり、水くみをしたり、そういう任務でした。4月半ば過ぎ頃からは重傷患者が多くなり、私たち看護隊は寝る暇もないほどでした。
戦況悪化の中で5月17日でしたか、私たちはナゲーラから識名分院と兼城村武富の病院に、二班に分かれて撤退することになりました。私は識名班でした。
しかし、識名分院も武富に移動するところで、私たちは到着してすぐ二人一組になり、歩ける患者に付き添うことになりました。私たちは識名と武富を二往復させられました。
最後に識名を出た時、重傷患者にはモルヒネが打たれました。私たち看護隊の一部の人も、軍医から注射を打つように命令されていました。
識名班は武富の壕に患者を護送したあと、先に行っていた看護隊とは別に、真壁の壕に行きました。
けれどすぐに、米須に部隊の本部隊があるというので、さらに移動することになりました。
米須付近には、たくさんの自然壕がありました。
民間人も同じように壕に隠れているのですが、軍は住民を追い出すことになってしまいました。
米須の本部隊でまた三班に分けられ、私は伊原の壕に行きました。激しい砲撃で伊原の壕は落盤し、
その時他校の看護隊の人が石に押しつぶされましたが、皆で彼女を救出しました。
間もなく本部に集合との伝令が入りました。私は首里高女の友人と一緒でしたが、彼女は荷物を取るのに手間取って遅くなりました。私が出たあと伊原の壕は直撃弾を受け、彼女はそこで亡くなりました。
本部壕へ行くと、「解散」と言われました。私たちは石川ユキ先生ほか、総勢19人でした。米軍の火炎放射攻撃にあいましたが、私たちは捕虜になるより「自決」の覚悟をしていました。
けれど先生が「死ぬ所はいくらでもある、ここから出よう」と声をかけたので、私たちは炎の中を一気にかけ抜けて外に出ました。その時私たちは米軍の捕虜になりましたが、先生の一声で壕から出て、とにかく生き残ることができたのです。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008452 |
内容コード | G000000731-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第263号(1999年6月) |
ページ | 3 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1999/06/10 |
公開日 | 2023/12/14 |