なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「夫からは一度手紙がきて、その中に爪と髪の毛が入っていましたが、夫は死を党悟していたのでしょうかね。」

字津波古在住 宮城フミさん(74才)
私は沖縄戦の前に屋号当山の長男と結婚し、娘が一人いました。
娘が生まれたのは1943年(昭和18年)、これからという時でしたが、夫は召集されて鹿児島の連隊に入隊してしまいました。娘はまだ生後9日目でした。名前を付けたのは夫ですが、「祈」の字を入れて娘は祈美枝と命名されました。子どもが生まれたのに召集されて、夫は何か祈りたい気持ちがあったんでしょうかね。
夫の入隊後、私はしばらくしゅうとたちと一緒にいましたが、戦争直前の頃は実家にいました。
実家は新田と言います。父新田器定は私が結婚する前に病気で亡くなりましたので、当時家にいたのは祖母カマと母ゴゼだけでした。
私は五人きょうだいの三番目の二女でした。長女初江はすでに嫁ぎ、長男器一は私の夫と同じ頃に出征。
国民学校高等科2年の妹ミサ子と同4年の弟器作は、学童疎開で宮崎に行っていました。
佐敷方面に艦砲射撃が始まったのは、45年(昭和20)3月24日でした。それから私たちは慌てて山原に疎開することになったのですが、祖母が津波古に残ると言うので、母と娘の祈美枝、私の3人で行きました。
金武に着いてホッとしていましたら、私たちの割当て地は山奥の開墾地の方だと言われ、暗くなってからまた避難小屋まで歩きました。
3日がかりでたどり着いた疎開地でしたが、避難小屋というのがずい分粗まつなつくりで、屋根も床も竹なのです。しかも部屋が四畳半くらいしかなくほかの家族も一緒なので寝返りもうてないのです。雨が降ると、それはもう大変でしたよ。
しばらくして食事は一日一食。最初の頃は、家から持って行ったヒジキや干しかぶもありましたが、それもなくなって、よその畑から芋を取ってきたりラッキョウを引き抜いてきて食べていました。
そんな暮らしが1か月近く続いたですかね。ある日、開墾地に米兵がきて私たちはみんな追い出されました。避難小屋はその時、米兵が燃やしてしまいました。何が何だか分からないうちに私たちは、金武の本部落に連れて行かれ、それから漢那の難民収容所に送られました。
一緒に疎開した母は、祖母のことが心配だと言って、米軍上陸の前に、親戚の人たちとまた津波古に戻っていました。しばらくは祖母と一緒に津波古の壕に隠れていたそうです。危なくなった頃、母は祖母に早く逃げなさい、と言われ、南部に行ったとのことです。そして、摩文仁辺りで亡くなったと聞きました。祖母は無事でした。久志村大川に移動させられていた祖母が漢那にきて、終戦の翌年、私たちは一緒に佐敷に戻ることができました。
間もなく、夫の戦死公報が届きました。夫からは一度手紙がきて、その中に爪と髪の毛が入っていましたが、夫は死を覚悟していたのでしょうかね。
その頃、私のように夫が戦死した人たちがたくさんいました。そういう私たちに周りの人が再婚を勧めるのです。私も親戚の勧めで宮城喜成と一緒になりました。
戦後は皆、何もない所からの出発でした。私たちは戦車の廃品を利用してゴム草履を作り、芋などと交換しましたが、これが当たりましたね。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=14YLoIq_83aVJnf7bsA15954lbo-D2Lj9
大分類 テキスト
資料コード 008452
内容コード G000000730-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第262号(1999年5月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1999/05/10
公開日 2023/12/14