なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「夫は『40歳までには引揚げるから今は我慢してね』と言っていました。せっかく帰ってきたのに海軍にとられ、戦死してしまいました。」

字仲伊保在住 知念カメさん(90才)
私の夫の知念照光は昭和18年(1943)まで、大阪で働いていました。その間大阪とこちらを行ったり来たりして、もうけたお金で昭和16年には、赤瓦の家を建てました。
昭和19年(44)10月1日に末っ子の五男吉和が生まれました。十・十空襲のあと、夫に佐世保の海兵団から召集がきました。私は産後の体で畑にも行けないし、「お父さん、役場で暇もらってね」と話しました。夫も「そうしようね」と、役場に出かけて行ったのです。
夫が「行かない訳じゃない。妻がお産したばかりだから、ちょっと待ってもらいたい」と話したら、佐敷の役場では分からないから県庁に行くように、と言われたそうです。それで夫は県庁まで行きましたがねぇ、やっぱり駄目でした。夫が入隊したのは10月25日でした。忘れられないです。
それから一か月くらいたって、夫が小禄の海軍部隊にいることを知りました。
場所は奥武山だというので、私は末っ子をおんぶして夫に面会しに行きました。その時、夫とどんな話をしたのか…。とにかく面会できただけでも嬉しかったですよ。
正月にまた面会に行ったら、帰る時夫は、支給されたお菓子があるからと言って、子どもたちに持たしてくれました。
しばらくして山原疎開の話が出た頃、夫が突然家にきました。「この戦は負け戦だから、山原に行っても生き延びられない。絶対どこにも行くな」と、夫はそう言い残して部隊に引き返しました。
ところが、2月彼岸の翌日頃から空襲や艦砲射撃が激しくなり、私たちはとうとう山原に疎開することになってしまいました。
私はしゅうとめを家に残し、11歳の長女ユキを頭に4人の子どもを連れて行きました。その頃、長男照吉は山口の軍需工場、二男清は学童疎開で家にはいませんでした。
美里村の泡瀬辺りまでは、三輪トラックで行きましたが、それから金武の疎開地までは歩くことになりました。ユキに吉和をおんぶさせ、私は四男の豊をおんぶし、さらに三男の時雄の手を引きながら歩きました。
石川の手前で夜が明けてしまいました。米軍の弾がボンボン飛んできたので、防空壕をみつけて入っていると、時雄がそこで眠ってしまって、起こしても起きないのです。
ほかの人はどんどん先に行くし、この先どうするかねぇと思っていたら、責任者の屋比久桃吉郎さんがきてくれました。そしてやっと、金武にたどり着くことができました。
金武では山奥の中川という所にいました。2,3日ではすぐ佐敷に帰れると聞いたのですが、あれから戦はますます激しくなって、佐敷に戻るどころではなかったですね。
しゅうとめは実家の母たちと一緒に、佐敷のタキノウの壕に隠れていたそうです。その母たちが久志村の二見にきていると聞いて、私たちも二見に行きました。けれどしゅうとめはマラリアにかかり、大里の大城に移動してから亡くなりました。
夫も戦死しました。大阪と行ったり来たりしている時、夫は「40歳までには引揚げるから、今は我慢してね」と言っていました。せっかく帰ってきたのに海軍にとられ、戦死してしまいました。夫が建てた赤瓦の家も戦争で焼けましたよ。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1k-cYeKBQ5gBNpyILmkRnhQx91bWWJI6C
大分類 テキスト
資料コード 008452
内容コード G000000729-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第261号(1999年4月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1999/04/10
公開日 2023/12/14