「言われた場所に、ガラガラーになった遺骨がありました。歯と頭の格好を見てすぐ夫に間違いないと思い、持って帰りました。」
字屋比久在住 當間カマドさん(82才)
沖縄に戦がくる前、私の夫當間誠宝は防衛隊に召集されて、具志頭村の港川に行ってしまいました。
子どもは長女貞子、長男誠勇、2女良子の3人でしたが、私たちは疎開もしないで親戚の人たちと一緒に、屋比久のイーヌモーの壕に避難しました。
昭和20年3月末から、屋比久の後ろのスクナムイにどんどん艦砲が飛んできました。夜は砲撃が止まるので、その間に急いで畑の芋を掘り、壕で煮炊きをしていました。
それからどのくらいたったのか、ある日、アメリカの飛行機からまかれたびらに「日本は負けた」と書かれている、と皆が騒ぎました。「本当かね」と思いましたが、山に逃げることにしました。けれど、その時私たちは、銃を持った2人の米兵に見付かってしまいました。
私たちの命はもうこれまでだねー、と私は覚悟をしましたが、「許してください、助けてください」と手を合わせ、何度もお辞儀をしました。だけどその米兵は、「カマワン、カマワン」と手をふって何もしないで通り過ぎて行きましたよ。
「ああ、助かった」と思って、またイーヌモーに引き返しました。驚いたのは、知らない間に屋比久には米軍が入ってきて、収容所になっていたことです。私たちは掘っ立て小屋に住み、米軍の配給を受けていました。でもそれだけでは足りないので、友軍の倉庫跡に米を取りに行ったり、フナクブガマに食糧が残っているらしいと聞いて、そこまで出かけて行ったこともありました。
フナクブガマで、飯盆を持ったまま死んでいる兵隊を見ました。急に夫のことを思い出して「もしやうちのお父さんではないかねー」と胸がドキドキしましたが、全々知らない人でした。
そのあと私たちは久志村の汀間に送られ、年が明けてから玉城村中山、知念村志喜屋の難民収容所を転々しました。志喜屋では班をつくって、あちらこちらに芋掘りに行きました。
長女貞子は9歳でしたが、とても意地があって、1度私が中山に芋掘りで行った時、1人で私を迎えに来たことがありました。その途中歩いている貞子の側を車が通りがかって、米兵が「ベビー、乗れ」
と合図したそうです。足が痛かったので乗ったけれどそのうち怖くなってきて、車のドアを叩いたら、その米兵は「ユー、中山」と言ってちゃんと降ろしてくれたそうです。
戦後は貞子が上の学校をあきらめて、家計を助けてくれました。貞子にはどれだけ励まされたか分かりません。
屋比久に戻っても、夫はどうなったのか、帰って来ませんでした。そしてしばらくしてから、字伊原の渡名喜興清(戦後改名)さんが訪ねてきて、夫が戦死したことを話してくれました。
渡名喜さんは夫と外間の人の3人、具志頭村仲座の壕まで一緒だったと言い、誰か生き残ったら家族に知らせる約束をしていたとのことでした。渡名喜さんが残ったけれど、捕虜になってすぐハワイに送られたので、報告が遅れたのだそうです。
埋葬はできなかったが現場に行けば分かると言うので、渡名喜さんと一緒に夫の遺骨を迎えに行きました。言われた場所に、ガラガラー(白骨化の意)になった遺骨がありました。歯と頭の格好を見てすぐ夫に間違いないと思い、持って帰りました。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1AwVKlBrepsCyvvSqKLL7b-MryL9dz7PB |
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000724-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第260号(1999年3月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1999/03/10 |
公開日 | 2023/12/14 |