「父からもらった手榴弾は使用せず、壕の中に置いてきました。米兵に投げる横会は何度かありましたが、投げなくてよかったです。」
字佐敷在住 宮城徳一さん(68才)
昭和20年3月24日、米軍の艦砲射撃が始まりました。「2手に分かれて避難すればどちらかは助かる」との父の意見で、家では母が3男、4男、6男の弟たちを連れて金武に疎開しました。当時、家族は両親に祖父母、男ばかり6人兄弟の10人でした。父が防衛隊にとられたので、家に残った長男の私は、祖父母と2男、5男を連れて、自分たちの壕に避難していました。
ある日父が私たちの所に、青年団の服や石鹸箱、そして万が一の時のためにと手榴弾を2個持って来てくれました。父は急いで戻ったのですが、父に会ったのはそれが最後になりました。
佐敷の壕が危なくなったので、私たちは玉城村の上江洲口の壕に逃げ、そこに20日ほど隠れていました。壕はどこも避難民でいっぱいでした。私たちは入口付近の岩陰にいたのですが、友軍の兵隊に「出て行け」と怒鳴られました。
仕方なく代わりの壕を探そうと、弟の徳実と様子をうかがっていたちょうどその時、直撃弾が飛んできて、2人とも岩の破片を浴びてしまいました。私は左手の親指と右大腿部を負傷しながら無事でしたが、しかし弟は下腹部をえぐられて、即死状態でした。弟の遺体は壕の前に埋葬しました。
2、3日後、祖母と私が別の壕に移る準備をしていると、耳の遠かった祖父は先に1人で出てしまい、それっきり行方が分からなくなりました。残った私たちは玉城城跡の所の壕に行き、そこでまた10日ほど過ごしました。
6月頃、米兵が私たちのいた壕の辺りを歩き回るようになりました。その頃から皆、捕虜にとられていきましたが、私たちは捕まったら殺されると思い、まだ隠れていました。
そのうちに私たちの壕にも米兵が来ました。私が恐る恐る傷を見せると、米兵は傷口に薬をつけてそのまま行ってしまいました。私は毒だと思ってそれを全部拭きとり、また米兵が来たら大変だと、夜のうちに佐敷に逃げることにしました。
照明弾の合間をぬって、何とか佐敷国民学校の上の壕までたどり着きました。上から、焼け残った家にたくさんの難民がいるのが見えました。少し安心して、私たちも部落に下りることにしました。
行方の分からなかった祖父は、1人で屋比久の方に来ていたようです。けれど祖父は、私たちが佐敷に戻る前の日に収容所内で亡くなり、佐敷の人たちが埋葬したということでした。
しばらくすると、佐敷村民は久志村に強制移動されましたが、なぜか私たちは残されました。それから、おばたちが知念村志喜屋にいることを知って、私たちもそこへ移りました。
あとで知ったのですが、金武に疎開していた母たちは、その頃、玉城村の船越に来ていたようです。
それで母たちも志喜屋に呼んで、佐敷に入れるようになってから、私たちは一緒に戻って来ました。
父からもらった手榴弾は使用せず、壕の中に置いてきました。米兵に投げる機会は何度かありましたが、投げなくてよかったです。投げていたら私も死んでいたはずですから。
結局、この戦争で祖父徳吉と父徳長、2男徳実の3人が亡くなりました。徳実は当時国民学校の6年生で、まだ12歳でした。いま振り返ってみても、無茶苦茶な戦争だったと思います。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000723-0005 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第259号(1999年2月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1999/01/10 |
公開日 | 2023/12/14 |