「侮やまれるのは、『軍隊のいない所には弾はこない。』と言っていた父が、大川でマラリアにかかって亡くなったことです。」
字新開在住大城鶴子さん(73才)
戦時体制下の1943年(昭和18)、沖縄家政高等女学校(後の積徳)を卒業したばかりの私は、佐敷国民学校の教員として赴任しました。
母校の教壇に立つ喜びは大きかったのですが、そのころの学校は戦時色がますます濃くなり、特に44年(昭和19)の夏から授業もほとんど出来ないような状況でした。学校には軍が入ってきて教室が使えず、また3年生以上の生徒たちを、陣地構築などの勤労奉仕に動員していたからです。
10・10空襲のあとは壕と家を行ったり来たりするような毎日でした。
年が明けて45年(昭和20)、沖縄戦は目前に迫り、2月以降住民の山原疎開が始まりました。学校はすでに自然休校のようになっていました。
当時、私の家族構成は両親と3男3女のきょうだいのほか、長兄の嫁がいました。長兄夫婦は糸満に住み、次兄と3男兄が出征、私のすぐ下の妹は首里高等女学校4年で看護隊に動員され、末の妹は学童疎開で宮崎にいました。ですから両親と一緒に家にいたのは、長女の私だけでした。
3月24日から米軍の艦砲射撃が始まると、私たちは部落内の家族の壕に避難しました。4、5日はそこにいたと思いますが、砲撃が激しくなったので字新里の桃原屋取後方の、通称馬天ギタといわれる丘陵地の壕に移動しました。この一帯はニービの山で、住民の避難壕がたくさん掘られていました。
馬天ギタにいる間、昼は壕の中でじっとして、夜になると畑から芋をとってきて食糧にしていました。煮炊きをするのは昼です。夜だと、中城湾に浮かぶ米軍の軍艦に明かりが見えるから、それが攻撃目標にされてはいけないということでした。今思うと昼でも煙が見えて危なかったはずなのに、そこまでは考えが及ばなかったのです。
しかし、佐敷方面への艦砲射撃がすさまじかったのは初めのころだけでした。米軍は、この辺りの避難壕には住民しかいないことを、すでに知っていたのではないかと思います。
当時64、5歳の私の父瀬底正行は、いつも「軍隊のいない所には弾はこない。だから軍のいる所には行くな。」と言っていました。
米軍上陸以前から私は、同年代の女性たちが軍に協力して弾薬運搬などの仕事についていることを知っていました。私は、馬天ギタの壕に避難して間もなく、マカー山(字佐敷と兼久後方の山)の壕にいた玉城柳耕校長を訪ね、「私だけ何もしないのは申し訳ない。何か軍に協力したい。」と相談しました。けれど校長先生にも「教職にある身、軍には行かなくてよい。」と言われました。
結局私は父たちと、馬天ギタの壕で2カ月ほど避難生活を続けました。
5月27日は海軍記念日でした。この日、与那原方面から米軍が近づいてくるとの情報が入り、私たちは慌てて馬天ギタを脱出しました。玉城村から知念村へと逃げ回っているうちに、知念村の具志堅でとうとう米軍の保護下に入りました。
その後、私たちは久志村大川に移動させられました。さらにいくつかの収容所を転々としましたが、翌年の夏やっと佐敷に戻ることができました。
悔やまれるのは、「軍隊のいない所には弾はこない。」と言っていた父が、大川でマラリアにかかって亡くなったことです。玉城校長も戦死でした。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1ZHMLrR8Pkof5rIxO9pmmKDFrAcYLPcgo |
---|---|
大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000721-0003 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第257号(1998年12月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1998/12/10 |
公開日 | 2023/12/13 |