「私は城間さんに夫の遺体の理葬場所を案内してもらい、遺骨を掘り起こしてきました。遺骨が見つかっただけでもよかったです。」
字冨祖崎在住 知念トヨさん(76才)
1945年(昭和20)3月ごろ、私の家族は冨祖崎の自宅にいました。夫の知念泉栄は防衛隊に召集されていました。私は姑ウサと幼い子ども二人を抱え、とても心細い思いをしていました。
3月24日は朝から艦砲射撃があり、字の警防団の仕事をしていた実家の弟、屋比久元一の勧めで、私たちは山原に疎開することになりました。その弟は後に戦死したのですが、弟の話では「3、4日もすればまた佐敷に戻れる」ということでした。
それで行く時は、荷物も少ししか持っていなかったのです。姑は一人で冨祖崎に残りました。私は4歳の長女光枝と2歳の長男敏雄のほか、実家の私の弟を2人連れていました。
佐敷村民の割当て疎開地は金武村でした。私たちはだいぶ後から行ったので、先の人たちが迎えてくれると思っていたのです。ところが翌朝、金武に着いてみると「戦が近づいてきて、ここも危ない」、という話でした。それで私たちはその足で中川というところに行きました。
3、4日のつもりで行ったので、間もなく手持ちの食糧がなくなってしまいました。中川の区長宅に行き「子どもに食べさせるものがなくて、困っています」と相談すると、ウムクジ(芋の澱粉)や米などを分けてくれました。
山の中では戦況がどうなっているのか、何もわかりませんでしたが、そのうちに友軍がどんどん後退してくるようになり、その時からは食糧がなくなっても、もう誰も構ってくれないのです。仕方がないので、私たちは時々山を下りて、他人の畑から芋やサトウキビを取ってきて、それで何とか飢えをしのいでおりました。
それから何日か過ぎて、避難小屋近くにも、あっという間に米軍がやってきて、私たちはみんな捕虜に取られてしまいました。男手のある家は収容所内で何か仕事もあったようですが、私たちは女子どもばかりで何もできないので、しばらく中川に残っておりました。
ある夜、山に隠れていた友軍の兵隊が避難小屋にやってきて、泊めてくれと頼むのです。その兵隊は食事もとってない様子でした。一人ではどうしていいかわからず、周囲の人たちを起こして相談し、みんなで少しずつ出し合って食事をさせました。食べ終えると兵隊は「自分はいつ死ぬかわからないから、これを使って」、と40円を置いてどこかへ行ってしまいました。この金はみんなで分けました。
米軍の収容所には物資集積所がいっぱいあり、男の人たちは、夜こっそり行って物資を盗んだりしていたようです。私たちも誘われましたが、怖いので行きませんでした。
その後、冨祖崎に残っていた姑が、久志村の大川にきているとの話が耳に入り、私たちもそこに移動することになりました。ところが姑に会えて喜んだのに、その姑は間もなくマラリアで亡くなってしまいました。
冨祖崎に戻ってから、今度は夫が具志頭村の新城の壕で亡くなったことを知りました。夫の戦友だったという字津波古の城間さんが、捕虜になってハワイに送られたそうですが、帰ってから私たちを訪ねてきてくれたのです。私は城間さんに夫の遺体の埋葬場所を案内してもらい、遺骨を掘り起こしてきました。遺骨が見つかっただけでもよかったです。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000720-0003 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第256号(1998年11月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1998/11/10 |
公開日 | 2023/12/13 |