なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「皇国のため、学徒兵として一たん家を出た以上、軍に協力しないで死ぬのは恥ずかしいこと、と思っていたのです。」

字佐敷在住 與那嶺清光さん(71才)
1945年(昭和20)、私は沖縄県立農林学校の2年生でした。3月23日ごろ、3日間の休暇を終えて学校に戻ってみると、その間に軍から鉄血勤皇隊農林隊の編成が命令されていたようです。
もはや沖縄が戦場になるのは必至の状況でした。私たちは比謝川上流の牧原の陣地壕に移動しました。
学徒隊としての私たちに軍服が支給され、暗やみの中で着替えを済ませました。
4月1日の米軍上陸までの間に私たちは、牧原の壕から越来村(現沖縄市)倉敷の陣地壕に移動し、さらにまたその倉敷の壕を出ることになったのです。
詳しいことはわかりませんが、私たちに、国頭に撤退することが告げられました。
私たち農林隊は、軍服に着替えてはいましたが、ほとんどの隊員が武器になるのは何1つ持っていませんでした。倉敷を出発した私たちは、山づたいに読谷から石川を経て、集合地の金武に向かいました。ところが、その途中の山で、私の所属していた農林隊3小隊は、突然「解散」ということになったと思います。
それでも私たちは金武に向かって、なお歩き続けました。すべては「皇国のため」、学徒兵として一たん家を出た以上、軍に協力しないで死ぬのは恥ずかしいこと、と思っていたのです。金武に集結して4月3日か4日には結局農林隊は解散したのですが、私は同郷の後輩の平田清や知念村出身の屋比久末晴と一緒にさらに国頭をめざして北上しました。
4月10日ごろ、私たちは現在の名護市の多野岳付近にいました。そのころ本部半島の宇土部隊の負傷兵が、多野岳山中にどんどん運ばれてきました。
それから間もなく米軍の攻撃が名護、多野岳山中にも迫り、負傷兵は続出する一方でした。そこで私たち農林隊は、羽地村の源河(現在名護市)に重傷患者を護送する任務についていましたが、やがて多野岳も危なくなりました。
私は米軍の包囲網を突破して久志村に逃げ、さらに東村の有銘まで行ってはまた久志に戻ったり、およそ1カ月間、国頭の山中を放浪していました。その間に私は後輩の平田清とはぐれ、気になっていましたが、5月に入ってから彼が戦死したことを知りました。
国頭に出発する時から私たちは決死の覚悟をしていたので、お互いに「誰か生き残ったら、家族に知らせる」ことを約束していました。でも戦後、親戚でもあった平田の家族に会ったとき、私は胸が詰まって何も言えませんでした。
国頭の山中も米軍の警戒が厳重になり、危険を感じた私は中頭に戻ることにしました。逃避行中は1人きりになったり、見知らぬ友軍の兵隊と一緒になったり、いろいろなことがありました。
こうして石川の後方山中から伊波に抜け、美里村の泡瀬の手前まできた時、米軍のパトロールに会いました。すでに私は、軍服を脱ぎ捨て民間人の間に紛れ込んでいたのですが、その人たちが「学徒隊とわかったら危ない」と忠告してくれたので、あくまでも彼らと一緒に行動することにしました。
佐敷に帰れたのは、翌年の46年(昭和21)5月ごろでした。私の家族は、母は無事でしたが、義勇隊の父と大川に行った妹がマラリアで亡くなりました。戦後、私は母を助けなければいけなかったので、新制高校への編入学をあきらめました。

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大分類 テキスト
資料コード 008451
内容コード G000000719-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第255号(1998年10月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1998/10/10
公開日 2023/12/13