なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「沖縄へ引揚げた時、まだ見ぬ娘のために服を買って持っていましたが、娘はもうこの世にいませんでした。」

字屋比久存住 新垣太寛さん(79才)
私は佐敷尋常高等小学校を尋常科6年で卒業後、しばらく家の手伝いをしてから母校の用務員になりました。私の家族は、私が9歳の時に父が病死したので祖母と母、私の3人。私たちは随分親戚に助けられましたが、私を学校に紹介してくれたのも、教員をしていた従兄の新垣太吉でした。
学校の勤めで忘れられないのは、1日置きに宿直があり、寝る前に担当の先生と一緒に提灯を持って「御真影(天皇・皇后の写真)」を安置した奉安室を見回りしたことです。その頃、佐敷尋常小学校の御真影は校舎内の一室に安置されていました。当時の先生方はそれを守るのにとても気を使っていました。
1937年(昭和12)、19歳になった私は学校を辞めて軍属に応募し、南洋群島のトラック島に出稼ぎに行きました。用務員の時は15円くらいの給料をもらって、これもいい方だったと思うのですが、南洋に行けば2倍もうかると言われ、友人たちと3人で申し込みました。雇用主は横須賀海軍建設部で、2年契約でした。
最初はトラック島で、飛行場と弾薬庫建設の工事人夫として働きました。その間に20歳になりましたが、徴兵検査の猶予願いを出してさらに雇用契約を延長しました。軍工事がたくさんあって、私たちはポナペ島(トラック島の東)にも回されました。
土木作業はきつかったですが、私は知念班(知念村の人が多かった)に入れられ、班長の照喜名メイセイさん夫婦に何かと世話になりました。
4年後の1941年(昭和16年)3月、これ以上徴兵延期もできないというので帰ってきました。
間もなく検査を受け、第一乙種で翌年の2月には熊本の西部十六部隊に現役入隊しました。
その頃私は満22歳。入隊までは家で農業したり徴用作業に出たりしておりましたが、41年の6月に同じ字の平田ヨシと結婚しました。出征したら生きて帰れるかどうかもわからず、まして祖母と母を預けるのですから、妻になる人に迷惑はかけられないと、私は内心気になっていました。
ヨシはただ1人の兄を「支那事変」で亡くしましたが、りっぱに村葬してもらったあと「女が御国のために役立つには兵士の妻になること」、と考えていたようです。それで入隊が決まった私の妻になってくれました。
熊本の十六部隊に入隊したあと、すぐに門司から船で朝鮮の釜山に渡り、北支の山西省に送られました。私は機関銃隊に配属されました。
44年(昭和19)3月、私たちの部隊は北支からインドシナに向かうことになりました。たまに貨車に乗ることはあっても、あちらこちらで露営をしたりしながらの行軍でした。天津、桂林、柳州などで激しい戦闘もありました。
タイのバンコクからビルマに向かっている頃、イギリス軍の飛行機からまかれたビラを見て、日本が無条件降伏したことを知りました。「これで終った」という気持ちでした。浦賀に引揚げたのは翌年でしたか。大阪の親戚から、私の出征後に娘が生まれたことを聞きました。
沖縄へ引揚げた時、まだ見ぬ娘のために服を買って持っていましたが、娘はもうこの世にいませんでした。この戦で亡くなったのです。一度も会えなくて私も無念でしたが、妻はもっと辛かったはずです。

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大分類 テキスト
資料コード 008451
内容コード G000000718-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第254号(1998年9月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1998/09/10
公開日 2023/12/13