「これは夢ではないかね一と、言葉も出なかったんです。長女を抱きしめる夫が、ただ眩しくてね―。」
字佐敷在住 津波和さん(76才)
私は20歳の時に結婚して、昭和17年(1942)には長女が生まれました。夫は屋号チュンナーグヮーの津波友次郎で、同じ字佐敷の同年生です。
昭和18年、夫は召集されました。長女がまだ生後2カ月の時で、夫からの手紙で朝鮮に行ったことがわかりました。
夫の家族は両親と、妹が4人いました。夫は長男で男1人、義妹たちも上が小学校5年生とまだみんな小さかったのです。
19年(1944)の夏、役場から県外疎開の話がきました。子持ちは疎開しなさい、ということでした。私は子どもが小さいので行きたくなかったのですが、義母に説得されて結局、自分の娘と小学生の義妹2人を連れて疎開することになりました。
私たちが出発したのは早かったです。あの対馬丸の前でしたから、内地の方が安全だと言われ、私もそう思ったんです。ところが鹿児島について待機している間に、「沖縄の船が沈没したらしいよ」と聞かされて、皆ずい分落胆しました。誰たちが乗っていたかねー、と心配して、那覇の国民学校の児童だと知ったのは後からでした。
私たちは一般疎開です。間もなくトラックに乗せられ、着いた所が宮崎県都城市の神社でした。そこの社務所で、字佐敷から一緒に行った、4家族19人が共同生活することになったのです。最初の頃は配給もあり金もあって、何とか暮らしていけたのですが、そのうち金も底をついてきたので、市内の煉瓦工場で4カ月ぐらい働きました。
私が勤めに出ている間、2歳の娘は義妹にみせていました。この子たちは都城の学校に行かなければならなかったのに、いやだと言って全然行かなかったんです。私がどんなに校門の前まで送り届けても教室まで行かない。言葉が通じないうえに、やっぱり親と離れて寂しかったんでしょう。後に学童疎開の田原国民学校に移った時も、「お母さんの所に帰りたい」と、そればかり言っていました。
年が明けて昭和20年の何月でしたか、都城も空襲が激しくなって不安な日々を過ごしておりましたら、鞍岡(宮崎県の五ケ瀬町)にやはり一般疎開していたおばが、田原国民学校の佐敷の学童疎開の世話人として行っていると聞いて、私もそこに移ることになりました。汽車の切符も取りにくい状況で、田原の校長先生が証明書を送ってくれました。
田原ではその頃、赤痢が発生して大騒動していました。佐敷の子どもたちは学校の教室から、河瀬さんという地元の有力者の家に移って共同生活をしていました。食糧がなくて、子どもたちは毎日お腹をすかして、世話人としても辛いけれど、何もないから仕方がないんです。それでも田原はまだいい方で、開墾地に植えたジャガ芋が沢山ありました。
終戦後、私たちはまた山口県宇部にいたおじの所に移りました。引楊げは広島の宇品から、昭和21年の夏以降です。帰ってみたら、義父と1番末の義妹が戦死したと聞かされました。
その頃、復員兵も次つぎに帰ってくるのに、私の夫が帰ってきたのは昭和23年でした。シベリアに抑留されていたそうで、とても痩せて帰ってきて…。私はこれは夢ではないかねーと、言葉も出なかったんです。長女を抱きしめる夫が、ただ眩しくてねー。その晩は義母も一緒に3人で、ずっと夜が明けるまで戦のことを話し合っていました。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000717-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第253号(1998年8月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1998/08/10 |
公開日 | 2023/12/13 |