「教え子を戦場に送った教師のひとりとして、再び教壇に立つのは、本当はとてもつらいことでした。」
字新開在住 屋良景福さん(79才)
私の生家の屋号は、屋良グヮーと言います。戦前はこのあたりのウェーキヤー(富家)で、畑が沢山あったのですが、ほとんどイリイチー(住込み)を雇ってさとうきびを作っていました。家畜も多くて、私などはずっと家畜の世話をしていました。それで後に軍隊に入ってから、暴れ馬を扱うのは上手な方でした。
兄弟姉妹は男7人、女5人の12人で、私が長男です。父は景白といい、1941年(昭和16)に佐敷郵便局長になり、戦中・戦後もそのまま奉職しました。
佐敷尋常高等小学校卒業後2年間、私は教師になることを目ざして、家の手伝いをしながら沖縄師範学校の受験準備をしておりました。
師範学校入学は、1936年(昭和11)でした。
戦時体制下の教育で、1年生の時から軍事教練は欠かせない科目でした。40年(昭和15)に、沖縄師範のバレーボール部が明治神宮大会の沖縄代表になり私も選手のひとりとして出場しました。佐敷出身の平田善吉先生が監督でしたが、残念ながら沖縄師範は2回戦で敗退しました。
卒業後、教員に採用された私は、山原の本部国民学校に赴任しました。ちょうど国民学校制が導入された年で、教育の基本は皇国民の練成ということでした。
私のころには「ハト、マメ」で始まった国語読本も「サイタサイタサクラガサイタ」、「ススメススメヘイタイススメ」に変わっていました。サクラは皇国の象徴でした。
その年の12月、日本は米英を相手についに太平洋戦争に突入しました。そして教員の私も現役召集を受け、42年(昭和17)4月、熊本の第6師団歩兵第13連隊に入営しました。
6カ月の教育訓練のあと、私は乙種幹部候補生を命じられ、集合教育参加のため愛媛県松山に移り、43年(昭和18)8月に伍長で現役満期となりました。そして9月にはすぐ臨時召集があり、まもなく原隊に復帰しましたが、私の部隊は南方に出発することになりました。
玉砕したガダルカナル島の奪回に行くらしい、とのことでした。44年(昭和19)の1月初め、私たちはニューブリテン島のラバウルに上陸しました。
私が教育訓練を受けていたその間に、米軍の反撃が始まり戦局は大きく転換していたのです。
目ざすガダルカナル島はすでに米軍の制圧下にあり、とても反撃できる状況ではなかったのです。そこで私たちは持久戦に備え、ラバウル周辺で畑を耕し、家畜を飼い、食糧確保をすることになりました。
その間ラバウルにも空襲はありましたが、ほとんど被害はありませんでした。
終戦後、私たちはオーストラリア軍に捕虜として抑留され、46年(昭和21)3月に日本への送還がきまり、浦賀に上陸しました。郷里に引揚げるまでは秩父セメントに勤め、その年の11月、やっと佐敷に帰ることができました。
私の家では祖母と母が亡くなっていました。廃虚のなかで学校が始まり、渡名喜元尊さんのすすめで私も教職に復帰することになりました。教え子を戦場に送った教師のひとりとして、再び教壇に立つのは、本当はとてもつらいことでした。終戦直後はそれだけ、教師が少なかったのです。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000716-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第252号(1998年7月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1998/07/10 |
公開日 | 2023/12/13 |