「永徳が僕の妻だから僕が責任をもつと言い、毎日カエルを取ってきて食べさせてくれたのです」
字つきしろ在住 宮城トシさん(81才)
私は父喜屋武松助と母ウシの長女として、知念村字久手堅に生まれました。小さいころ母が亡くなり祖母に育てられましたが、数え11歳の時、出稼ぎの父と一緒に私も南大東島に渡りました。
大東には父1人で行くところを、船に乗るまで私が父にしがみついて離れないので、仕方なく私を連れて行ったのだそうです。母親を知らずに育った私は、父親まで遠くに行ってしまうのが、子ども心にも怖かったのだと思います。大東ではミシン屋に預けられ、その家の子守に使われました。学校にもろくに行けませんでした。
その後私は、紡績に行っていたいとこを頼って大阪に出ました。高野豆腐の工場やダンボールの工場に勤めたり、いろいろな仕事をしましたが、長く勤めたのは京都のヨコイ鉄工所で、そこは飛行機の羽根(プロペラ)を作る工場でした。戦争景気で、そのころは仕事がたくさんありました。
大阪から戻って、佐敷の字手登根にいたおばの家で帽子編みの仕事をしている時、宮城栄徳との結婚をすすめられました。栄徳はサイパンにいて、先妻と死別した人でした。先妻は長男出産後、病気のため帰ってきてからこちらで亡くなりました。
栄徳の家はおばの嫁ぎ先の親戚でもあり、またその先妻と私は友だちだったので、ずっと看病していたのです。ですから、これも何かの縁と思い、私は栄徳のいるサイパンに行くことにしました。昭和14年(1939年)だったと思います。
栄徳は南洋興発の製糖工場で、機械の仕事をしていました。私が行ってから1年くらいはテニアン島にもいましたが、またサイパンに戻りました。会社はチャランカノアという所にあり、私たちは会社の寮にいました。私も会社の人夫に雇われ、線路の草取りや落ちているキビを拾う仕事をしました。農場からサトウキビを運搬するのに、鉄道が敷かれていたのです。
サイパンが戦争になる前、飛行場づくりなどで軍に徴用される人もいたのですが、栄徳も私もずっと会社の仕事だけでした。私が覚えているのは、陸軍の兵隊も会社の寮の炊事場を使っていましたが、いつも若い兵隊たちが「おばさんの顔見たら、自分のお母さんを見ているようで嬉しいよ。」と言っていたことです。
アメリカ軍が上陸してからのサイパンは、本当に大変でした。思い出したくないくらいです。私たちは遠くには逃げず、チャランカノアの山の方の会社の壕に入っていました。1度、別の壕に移ろうとして栄徳が先頭になり続いて私、その後ろから他の人たちもついてきましたが、その時弾が飛んできて、後ろの人たちはやられてしまいました。
捕虜になったのはいつだったか、はっきりしません。ケガ1つしなかったのに、収容所で私はひどい下痢で衰弱していました。その前にあんまり喉が渇くので、死体の浮いた泥水を飲んでいたのです。
アメリカ兵が私を見て、もうこれはダメだから死亡届を書いて穴に埋めろ、と言ったそうです。栄徳が「僕の妻だから僕が責任をもつ」と言い、毎日カエルを取ってきて食べさせてくれたのです。1度死んだ私は、カエルのおかげで助かりました。
引揚げたのは昭和21年。私たちはサイパンから直接、中城村久場崎に着きました。沖縄に残していた姑と長男が無事でいたのが、何よりでした。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000715-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第251号(1998年6月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1998/06/10 |
公開日 | 2023/12/13 |