私は今年満91歳になりました。父の名は桃八。生母カメは私が小学校5年生のころ亡くなって、後に継母マカがきました。きょうだいが多く(3男4女)キビ作りだけでは暮らしがなりたたないので、17歳の時内地に出稼ぎに行きました。
仕事先は大阪、和歌山、京都といろいろ変わりましたが、和歌山で結婚。その間に「大東亜戦争」が始まったので、1足先に妻子を帰郷させました。当時は軍需景気で、だいぶもうかったもんですよ。ところがその後、戦況がどうも思わしくない。そこで私も昭和18年に引揚げてきましたが、船の切符をとるのにだいぶ苦労しました。
帰ってきて間もなく私は、宮里寛一さんのすすめで役場に入り、配給主任と衛生主任を命じられました。戦時下の統制経済で、当時はすべて配給制。しかし配給しようにも、物がないという状況でした。
昭和20年2月、ころ、本島中南部住民の山原疎開が決定され、佐敷村民は金武村に割り当てられました。疎開先での配置係は仲伊保の城間盛亀さん。私は金武まで疎開者を送りとどける引率係でした。
任務を終えた後、今度は家族を連れてまた金武に行きました。それが3月28日。両親は家に残ったので、妻と子ども3人。長男英治は満1歳の誕生日を迎えたばかりでした。ところが、金武の並里部落に着いたら、山奥に避難した方がいいと言うんです。それで中川の山奥の仮小屋に家族を移動させ、私は佐敷に戻ることになりました。
中川を出たのは31日の夜でした。中城の伊舎堂部落で夜が明けて、ちょうど4月1日。艦砲射撃、空爆がいつもよりひどいと思ったら、その日は米軍が本島に上陸した日だったわけです。
佐敷に戻ると、もう役場は解散状態です。職員はほとんど防衛隊に引っ張られ、私も玉城に駐屯していた野崎隊に配属されました。任務は弾薬運搬。この部隊に付いて私は那覇の安里、西原の幸地と激戦地ばかり歩いているんです。
安里の壕に、兼久の宮城という17、8の少年がきていました。こんな若い人を第1線に引っ張って、殺されにきたようなものだと気の毒に思い、「ここにいたら危ない。逃げよう」と、国場まで一緒に行ったんです。そこで佐敷の連中に出会って「逃亡兵は家族までやられるらしい」と脅され、仕方なく松川の部隊の壕に引き返しました。
米軍の攻撃はますます激しさを増し、こちらが軽機関銃を2、3発撃つと、逆にその何倍も撃ち込まれるのです。「もう、戦争はできない」、そう思って私はまた逃げました。国場付近は、弾薬運搬に駆り出された女の人や防衛隊の人でいっぱいでした。
そこから知り合いについて玉城の糸数壕まで行きました。でも、役場で一緒だった外間文治さんが負傷していたのが気になって、国場に戻ってみたが、その時はもう文治さんにも会えませんでした。
その後、文治さんとは手登根の上のフナクブガマで一緒になりました。屋比久、伊原の方はすでに米軍の収容所になっていましたが、それでも私たちはずっと隠れて、最後の捕虜でした。
私は防衛隊から2度も逃亡しながら助かり、逃げなかった多くの友人たちは亡くなりました。家族のなかで母が先に新里で、父が大浦の難民収容所で、戦後亡くなったのが何よりも悔やまれます。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008451 |
内容コード | G000000714-0008 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第250号(1998年5月) |
ページ | 6 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1998/05/10 |
公開日 | 2023/12/13 |