なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「その人は、間もなく兵隊に捕まえられどこかに連れて行かれました。死刑になったと聞きましたが、どうなったかわかりません」

字佐敷在住 徳本貞子さん(73才)
「支那事変」が始まった年、私は佐敷尋常高等小学校の高等科1年生でしたが、途中で辞めることになりました。理由は、そのころ姉が紡績に行き、次女の私が家事を手伝わなければいけなかったからです。実家はわりと大きな農家で、イリチリー(住み込み人)を2人も雇っていましたが、それでも人手が足りないくらいでした。
当時、上の学校にいかない人はみんな、青年学校に行くようになっていました。やることといえば軍事訓練、農事訓練、そして奉仕作業がほとんどでした。そのころから出征兵士が多くなったので、その兵士の家の農作業を手伝うほか、国防婦人会と協力して千人針や慰問袋もつくりました。
それから何年だったか、当時の字佐敷の婦人会長から話があって、保育所の手伝いをすることになりました。保育所といっても施設があるわけでなく、字の東西2カ所の広場に就学前の子どもたちを集めて、ただ遊ばせるだけです。そのために私は、那覇の間洋会館で保育の講習を受けました。
ほかに青年団の一員として、北谷村にあった牧原農事訓練所にも派遣されました。そこでは鋤などの農具の使い方をはじめ、さまざまな実習がありました。食糧増産のための訓練でした。
でも私が青年学校でそんなことをしている間に、友だちは次つぎに紡績に行くのです。それが羨ましくてたまらず、とうとう私も親に内緒で申し込み、大阪の堺福島紡績に行きました。
そこで約1カ年。着物や反物を買い、貯金もできたところで家に帰りました。昭和18(1943)年に帰郷して間もなく、私は同じ字の徳本善信と結婚しました。
ところが夫の徳本は、最初の子がお腹にいてまだ5、6カ月のころ、召集されてしまいました。翌年4月、長女が生まれました。その後友軍が入ってきて住民に陣地構築作業の割当てなどがありましたが、私は赤ん坊がいるので免れました。
10月10日の空襲の時は、部落の裏山の上の壕に避難しました。住民はみんなそこに、自分たちの壕を掘ってあったのです。私たちは家と壕を往復していましたが、1度、奇妙なスパイ騒ぎがありました。
壕から見下すと、白い地下足袋に丹前をはおり、頭巾をかぶった男が上ってくるのがみえました。飛行機も飛んでいるのに変だ、と思ったら、その人が「那覇の丸山号や山形屋が焼けたのを知っているか」と聞くのです。地図を持っているので私は何かピンときて、分からないと答えました。
その人は私たちの所から去ったあと、間もなく兵隊に捕まえられどこかに連れて行かれました。そのまま死刑になったと聞きましたが、どうなったかわかりません。
翌年3月末、空襲や艦砲がひどくなって、佐敷の人たちは山原に疎開しましたが、私は姑や義兄の家族と一緒に米軍がくるまでずっとここにいました。6月ごろ、近くにいた兵隊が「この戦は負けだ」と言うのを聞き、私たちは知念村志喜屋に逃げました。そこで民家に隠れている時、隣りの家にいた友軍の兵隊が米軍に手榴弾を投げ、反対に機関銃でやられました。私たちはそれを見て怖くなり、とうとう捕虜になりました。
それまで私たちは全員無事でしたが、収容所で私の娘と同じ年だった義兄の長男が亡くなりました。

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大分類 テキスト
資料コード 008451
内容コード G000000713-0006
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第249号(1998年4月)
ページ 10
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1998/04/10
公開日 2023/12/13