なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「飛行兵としてやがて戦地に行くであろう兄のために、盡忠報国(じんちゅうほうこく)と大きく書いた。私は軍国少年だった」

外間在住 小波津厚明さん(67才)
私は昭和12年(1937)年4月、佐敷尋常高等小学枝に入学した。国語読本は、「サイタ、サイタ、サクラがサイタ」で始まった。入学したその年に「日支事変」(日中戦争)が起こった。
その頃から日本はしだいに戦争への道を歩みはじめる。軍国主義教育の中で、学校の教科書には旅順港封鎖の広瀬中佐や日本海海戦、肉弾三勇士の話があり、唱歌も兵隊をたたえる歌が多かった。
5.6年生になると、大人の軍事教練と同じようなものがあった。生徒たちは行進ラッパに合わせ、式台上の校長先生の前にさしかかると「カシラー、ミギ」「ナオレ」の号令で勇ましく行進したものである。下校後には、出征兵士の家の農作業を手伝う勤労奉仕があったが、その間畑には日の丸が立てられていた。
5年生に進級した時、小学校が「国民学校」に変わった。そしてその年の12月8日、真珠湾奇襲攻撃で日本は「大東亜戦争」(当時はそう言っていた)に突入したのである。
翌年2月、シンガポールが陥落した時は、佐敷でも学校を中心に村民が東西に分かれ、旗行列で各部落を回るなど、一日中戦勝祝いに酔ったものである。
その後、戦況は不利になるのだが、学校ではいつも「勝った、勝った」の話ばかりであった。
昭和19(1944)年、沖縄守備軍の配置に伴い佐敷国民学校も兵舎になり、授業のない日が多くなった。私は高等科2年になっていた。上級生の私たちは「勝ち抜く僕ら少国民」として、毎日のように芋弁当を手に、軍の陣地構築作業に駆り出されていた。7月に入り、学童集団疎開の話が出た。疎開できるのは原則として3年生以上6年生まで。しかしそれでは希望者が少なかったのか、その後高等科2年生まで範囲が広げられた。
同じ頃私の家では、沖縄県立一中の3年生だった兄・正美が、陸軍少年飛行兵学校に志願して一次試験に合格。二次試験を受けるため、大分県に出発する準備をしていた。
その兄が、「沖縄が戦場になるのは間違いない。すでに我が家から2人の兄が出征している。僕も飛行兵としてお国のために戦場に行くことになるだろう。小波津家の将来のためには家族は分散させた方がよい」と言い、私に疎開をすすめた。私は迷っていたが、兄の話に両親が同意したので私も行くことにした。
それから数日後、いつものように軍の壕掘り作業から帰宅すると、出発の知らせが届いていた。8月下旬であった。
母や兄と一緒に大急ぎで、旅支度に取りかかった。
その時、兄がふいに自分のノートを広げ、「君の好きな言葉を書いてくれ」と万年筆を渡した。突然のことでめんくらったが、私は飛行兵としてやがて戦地に行くであろう兄のために、「盡忠報国」と大きく書いた。私は軍国少年だった。兄はしばらく黙ってノートを見つめ、それから満足したような顔で「ありがとう」と言った。疎開先は宮崎であった。私は山城静進、当山昌栄両先生の下、岩井川国民学校に振り分けられた。
飢えと寒さと寂しさに泣いた疎開先での話は、別の機会に譲る。ともあれ、終戦後私は宮崎で兄たちと再会し、無事に引揚げることができた。(手記)

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大分類 テキスト
資料コード 008450
内容コード G000000708-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第248号(1998年3月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1998/03/10
公開日 2023/12/13