「私は自分の遺骨というのを受け取りました。家に帰って箱を開けてみると、中は何もなく空箱でした」
字伊原在住 仲村渠常得さん(72才)
私は父仲村渠蒲と母カマの四男として、佐敷村字屋比久の第二区伊原で生まれました。
兄弟は四男三女の七人で、私は下から二番目の四男です。1940(昭和15)年3月、佐敷尋常高等小学校を卒業すると、仲村渠常金の養子になりました。
沖縄戦の前、私はまだ19歳でしたが、徴兵年齢の引き下げにより私も1944(昭和19)年2月、那覇市の武徳殿で徴兵検査を受けました。結果は第一補充となり、8ヵ月後の10月15日に独立歩兵第22大隊藤岡部隊に入隊しました。部隊は宜野湾村の嘉数国民学校にあり、そこで、3ヵ月の訓練を受けました。
入隊の時、西原を通って嘉数まで徒歩で行きました。那覇大空襲の4.5日あとなのに、被害を受けた西原の製糖工場はまだ燃えていました。
訓練終了後、私の所属部隊は首里の石嶺に駐屯していました。私は軽機関銃隊でした。そしていよいよ1945(昭和20)年4月1日の米軍上陸で、私の部隊も浦添戦線に投入されました。
激しい攻防が続きましたが、浦添の経塚付近での戦闘中、私は右足貫通銃創のほか鼻、手、胸にも銃弾を受けました。幸い防衛隊員に担架でかつがれ、首里赤田の野戦病院に入院して治療を受けることができました。
この野戦病院に、字冨祖崎の真栄城和子(現吉野)さんが看護婦として勤務していました。一週間ほどで南風原の陸軍病院に移されましたが、やがて陸軍病院も南部に撤退することになりました。
戦況は日に日に悪くなるばかりです。負傷した足には、いつのまにかウジが湧いていました。南風原からは杖をつきながら、大里を経て王城の糸数壕に着きました。しかし、そこも混雑して入れないので、さらに南へ南へとさがり、たどり着いた所が摩文仁の海岸でした。
泳いで逃げようと思い、居合わせた友軍の兵隊と一緒に夜の海に飛び込みました。ところが翌朝、私たちは米軍の舟艇に囲まれ、船に引き上けられてしまいました。殺されるのかと思いましたが、私たちはそこで水と白米を与えられ、そのまま美里のインヌミヤードゥイを経て屋嘉の捕虜収容所に送られました。
屋嘉で数日過ごしたあと、7月5日に北谷から船に乗りました。捕虜はふんどしにシャツ姿、その数およそ千人ほどでした。行く先はハワイで、途中グアム・サイパンに寄港しました。
ハワイでも収容所生活でしたが、強制労働もあまりなく、私は炊事係として働きました。その間に私は左手の甲に残っていた破片を、自分でかみそりを使って取り除きました。
引き揚げのためハワイを発ったのは1946年12月でした。最初は神奈川県の浦賀港に着き、そこで新年を迎えたあと47(昭和22)年1月5日、無事に久場崎に上陸しました。
我が家に帰って数日後、村役所から「仲村渠常得の遺骨を取りに来るよう」通知がありました。厚生省の調べで、私は「戦死」ということになっていたようです。家族と相談の上、私は役所に行って自分の遺骨というのを受け取りました。家に帰って箱を開けてみると、中は何もなく空箱でした。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008450 |
内容コード | G000000707-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第247号(1998年2月) |
ページ | 3 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1998/02/10 |
公開日 | 2023/12/13 |