「行くのも行かないのも、どちらが助かるのか、あの時は誰にもわからなかったですよ」
字小谷在住 平田カメさん(88才)
私の生まれ島(生地)は、大里村の真境名です。
小谷の後ろの山の向うが真境名部落で、すぐ隣だから、昔は小谷に嫁にくる人も多かったようですよ。
家がとても貧しくて、私は小学校に入学しても学校には殆ど行けず、八歳のころからおばの家の子守りをさせられました。学校の先生が家にきて「ヤラチクミソーリ(行かせてください)」、とどんなに言っても、行かせてもらえませんでした。貧しいのは仕方がない。そういう時代でしたね。
はっきり覚えていませんが、小さい時に父が亡くなり、母はその後再婚しました。3人きょうだいのうち2番目の兄が小さい時に亡くなって、長男兄と私は母が再婚した時、別々に父方の親族に引き取られました。私はおばの家で、子守リをしながら大きくなりました。子守リのあとは、ずっと帽子クマー(戦前の沖縄の産業の一つで、アダン葉帽子を編んだ)でした。 20歳の時に、すすめられるままに小谷の平田保三と結婚しました。保三はその時40歳でした。親子ほどの年齢差ですが、何も知らない私に保三はとても誠実に接してくれました。
結婚して間もなく、長男ができました。男の子でよかったです。子どもはこの子一人しかできなかったですから。
自分は無学でしたが、長男はちゃんと高等二年を卒業しました。できたら上の学校に行かせたかったのですが、その長男は海軍に志願して受験し、合格しました。そのころは、戦争がもうそこまできているという状況でした。
いよいよ船に乗って行くという時、長男に持たせるつもりで弁当作って那覇港まで行きました。最初子どもたちが泊まっている旅館を訪ねたらもういない。急いで港にかけつけたけど、うちの子は大きな船に乗り終えたあとでした。本船に乗るのを待っている別の組に知っている子がいたので、その弁当を届けてもらおうと思ったが、それもだめでした。
出港は親たちにも知らされなかったんです。仕方がないから私たちは三重城の先に走って行って、そこから般影が見えなくなるまで、手を振って見送りました。
その日はいつだったのか、それは長男が覚えているでしょう(注・長男の平田吉雄さんの話によると、那覇港を出たのは昭和20年1月10日ごろ。2月1日には長崎の相浦海兵団に入団した)。
それから戦争が激しくなりました。本土や山原の方に疎開した人たちもいましたが、私たちは小谷に残リました。空襲や艦砲も小谷の壕でしのぎました。
夫はもう歳だったので防衛隊を免れて、ずっと一緒に避難することができました。
そのうち小谷にいられなくなったので、王城村の親慶原の壕から垣花、百名とあっちこっちの壕を逃げまわりました。他人の墓に隠れたこともありました。玉城村の富里の壕にいる時、米軍に収容されました。そこから船越に移されて、戦後小谷に戻るまで、ずっと船越の仮小屋で暮らしました。
海軍に志願した長男は、熊本に疎開した小谷の人たちと一緒に無事に帰ってきました。一人しかいない男の子を何で行かせたのか、と言う人もいたけど、行くのも行かないのも、どちらが助かるのか、あの時は誰にもわからなかったですよ。無事に帰ってきた長男の顔を見た時は、本当に安心しました。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008450 |
内容コード | G000000705-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第245号(1997年12月) |
ページ | 7 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1997/12/10 |
公開日 | 2023/12/13 |