「夫は防衛隊に行ったきり、戻って来なかった。安里の壕までは生きていたという話をきいたがね―」
字屋比久在住 平田トシさん(89才)
私は明治41(1908)年の生まれでねー、最近トーカチ(米寿)の祝いをしましたよ。足が少し不自由だがねー、このとおり元気ですよー。
私らは戦争中、子持ちでないのはみんな軍に徴用されました。当時の私の年齢は、数えで39歳になっていたはずよ。娘が一人いたが、この娘は戦争前に内地(本土)に行っていた。そのまま向こうで結婚して、こっちには時々しか帰ってこない。夫も戦死して、姑が亡くなったあと私はずっと一人ぐらししていますよ。
作業はあっちこっちでやりましたよ。西原(現西原町)の飛行場づくりにも引っ張られたが、女はザルに土を入れて運ぶ作業。芋とアンダンスーグワー(油味噌)の弁当持って、西原まで通いました。
それから大里村の稲福や知念村のイリーバルという所、今の刑務所の付近ねー、そこでは敵の戦車を落とすといって穴を掘る作業があった。また、佐敷村内ではンナトゥバシ(手登根と屋比久の境、旧港橋)を壊す作業にも行きました。こんなことしても、平和になったらアメリカーはここにサーラナイ(あっというまに・の意)道を造ってあったがねー。
10・10空襲のあと、部落の人はめいめいで壕を掘って、私らも屋敷のすぐそこに掘って、空襲がきたら姑を連れてそこに避難していました。だが、私はまた伊原の奥のワイトゥイ(切通し)に軍の三角兵舎があったから、そこの炊事班の仕事もさせられましたねー。
日にちは覚えていないがねー、アメリカーが上陸してからでしょう。私も入れて佐敷から四人、みんな女ですよ。知念から大里の稲嶺を通り、那覇の国場に上がって安里を抜けて牧志の壕まで、弾薬を運びました。夜の山道を歩いてねー。人が死んでいるのか、馬が死んでいるのかわからないが、道を歩いていたら臭くて大変だった。
昼間は壕に隠れているでしょう。稲嶺の壕にいる時は、タンカー(真正面、ここでは那覇方面を指す)見たら弾がボンボン飛ぶ。私らは生きるかねー、死ぬのかねーと思って、こわかったですよ。
夫の源泉は20(1945)年の2月、ころ、防衛隊にとられました。そのころから、山原に疎開の話があったが、私も軍に徴用されているから姑一人では行かされないでしょう。それで姑もここに残っていました。
私は牧志まで弾薬運びをしたあと、「義勇隊は解散していい」と言われたので、佐敷に戻って、門中の壕に姑と一緒に避難していました。この壕はウティンダ原にありましたよ。何月だったか、そこで捕虜にとられました。
壕から出て部落におりてきたら、こっちはもう那覇の人も首里の人も、難民がいっぱいしていましたよ。二か月ぐらいしたら、今度はまた山原の汀間に連れて行かれました。
夫は防衛隊に行ったきり、戻って来なかった。安里の壕までは生きていたという話をきいたがねー。
夫がどこで死んだかわからないが、戦後、安里まで行って魂を呼んできましたよ。
私と一緒に弾運びした佐敷の人たちも、どこでどうなったか、戻って来なかったですよ。四人のうち生き残ったのは私一人だけです。今の子どもたちに、戦争の話はよく伝えておかないといけないねー。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008450 |
内容コード | G000000704-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第244号(1997年11月) |
ページ | 5 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1997/11/10 |
公開日 | 2023/12/13 |