「過労と栄養失調、マラリアなどで生死の境をさまよったこともあった」
字つきしろ出身 故・崎濱秀榮さん(享年75才)
私は昭和4年(1929)に小学校に入学したが、2年後の昭和6年には満州事変が勃発し、軍閥が台頭してきた。 - 中 略 -
侵略戦争は着々と進行し、昭和16年、私が高等師範2年のときに「大東亜戦争」へと拡大していった。政府の政策を非難する者、協力しない者は「非国民」と呼ばれ、弾圧を受けた。言論と報道は厳しく統制され、一方的で誤った情報が提供された。国民は内外の情勢を見誤り、正常な判断を失い、誤った一つの方向に猛進する結果となった。
私は昭和18年12月、臨時召集により熊本の野砲連隊に入隊したが、その後東京の陸軍航空通信学校に分遣を命ぜられ、電波兵器の教育を受けた。
そして昭和20年3月、見習士官として将校勤務を命ぜられ、同時に支那派遣軍第六航空連隊に転属となり、博多港から釜山を経て南京に到着した。それから漸江省寛橋の飛行場付近の小高い丘に、一個小隊で送受信所を建設し、電波探知機の設置に取りかかったのである。
そこでは苦力(クーリー、中国の下層の人夫)を徴用し、陣地構築を急いだ。その間、過労と栄養失調、マラリアなどで生死の堺をさまよったこともあった。苦力は昼食とタ食が部隊から支給され、報酬として米や塩も支給されていた。この地域にはゲリラ的な事件はあったが、大きな戦闘はなかった。 日曜日には外出を許可していたので、数名の兵隊を連れて、よく農家の手伝いなどに行った。私の部隊は東北出身の兵隊が多かったので、田植えや稲刈りはお手のものであった。
兵隊たちが五、六株の稲をつかんで、さっさっと稲を刈っていく鮮やかな鎌さばきは、マンマンデー(中国語でゆっくりの意)の中国の農民には驚きであった。終了後は大変お礼をいわれ、歓待されて部隊に帰ったものである。日本人の中には、中国人を「チャンコロ」などと呼んで馬鹿にする者もいたが、私たちにはこういう差別意識はなかったので、農民たちとも仲良くなっていた。 やがて、電波探知機の施設が完成し、やっと作動し始めたのであるが、8月15日、現地において終戦詔書の玉音放送を受信し、全員で聞いた。無条件降伏を受諾したことがわかって、私たちは皆大いに残念がった。敗戦を残念がったことはたしかだったが、しかし一方、生きて帰れそうだという期待でほっとしたこともたしかであった。
8月20日に「陸軍少尉に任ず」との辞令を受けた。ポツダム少尉といわれる所以である。 その後部隊は上海に集結し、収容所での捕虜生活が始まった。蒋介石の「仇に報ゆるに恩を以てせよ」との布令が出たのも、そのころであった。日本軍の糧秣などは押収されることもなく、生活物資は上海を引き揚げるまで支給された。
そのようにして、昭和21年の正月には餅をつき、お供えをして、日本風の正月を迎えることができた。待ちに待った帰国の日が1月9日、突然に訪れた。そして冬の東シナ海を渡り、1月11日に佐世保上陸。やっと祖国に帰ったことを実感した。
故・崎濱秀榮氏が生前寄稿された、「私の戦時体験」の一部を掲載いたしました。氏は今年3月まで佐敷町史の編集委員長を務められました。ご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008450 |
内容コード | G000000703-0006 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第243号(1997年10月) |
ページ | 5 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1997/10/10 |
公開日 | 2023/12/14 |