なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「日本人は引き揚げまで抑留されました。食糧がないので現地の人たちと物々交換の、その日ぐらしです」

字つきしろ在住 具志かほるさん(78才)
私の生家は、台湾の花蓮市でございます。
両親は山梨県の出身で、父が薬剤師の資格を持っていて、花蓮病院に勤務のため、おそらく大正の初め頃、内地から赴任したのでございます。母は華道池坊の教授をしておりました。
私は1919(大正8)年3月、花蓮市の王里街で出生いたしました。台湾でのくらしは楽なもので、何不自由なく育ったといえましょう。日中戦争から太平洋戦争へと、戦争が長引いてまいりますといくらか窮屈になりましたが、私の家では父の職業柄いろいろな便宜が与えられ、食糧その他の物資も割と手に入ったのでございます。
1940(昭和15)年、私は沖縄県出身の具志幸俊と見合いをし、結婚いたしました。具志は沖縄県立二中を卒業してさらに台南高等工業専門学校に進み、東部電気株式会社に入社して当時、花蓮市に来ておりました。この会社は後に、戦時体制により統合されて台湾電力という社名になりました。
具志の勤務地は山あいの銅門という所にあった清水第一発電所でございました。そこに2000人くらいの人が住んでおりまして、私たちの新居は7DKの社宅でした。
1年後に長男が誕生、つづいて翌年(昭和17)長女が誕生いたしました。ところがその年に、具志は電気技術者として召集を受け、長女が生まれる前に入隊してしまいました。
部隊で具志は、探照灯(サーチライト)の係だったそうです。空襲の時はさぞ危険だろうと案じておりましたら、やはり敵機の攻撃で同僚が戦死されたそうでございます。具志からは何度か無事だという連絡が入り、そのたびにホッといたしました。
1944(昭和19)年の那覇の10・10空襲の頃、台湾もひどい大空襲があったのでございます。花蓮市では港湾部や軍施設が攻撃されましたが、幸いにも私たちの所は、ほとんど被害もございませんでした。市街地に住む高官たちの荷物を、私たちの家で預かっていたほどです。
けれどもやはり、空襲警報が鳴ると緊張いたしました。大事なものは防空壕にずっと保管しておりました。その頃から配給物資も少なくなり、ほんの一握りの塩を得るために三時間も並ぶ、というありさまでした。
終戦の年の8月15日、自宅で王音放送を聞きました。具志が無事でいることはわかっておりましたが、はたして一緒に日本に帰れるかどうか、不安な気持ちでいっぱいでした。
日本人は引き揚げまで抑留されました。食糧がないので現地の人たちと物々交換の、その日ぐらしです。着物や家財道具が次つぎに消えました。苦しくはありましたが、現地台湾人からの報復もなく、あまり危険は感じませんでした。でも日本人の財産はすべて、没収されました。
夫が戻ってきたのはその年の暮れでした。日本人の引き揚げが始まりましたが、電気技師の具志はすぐに帰れません。私たちは最後の引き揚げ船で、46(昭和21)年12月に久場崎につきました。
沖縄の具志の家では、長兄が義母を連れて南部に避難したそうですが、義母は糸満付近の壕で疲労のため動けなくなり、そこで亡くなったそうでございます。義父もあの10・10空襲で亡くなっていたのでございます。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1W2qkWj6PWVa4N9Iw8wt53_Kbim-p5hpk
大分類 テキスト
資料コード 008450
内容コード G000000701-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第241号(1997年8月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1997/08/10
公開日 2023/12/14