「結局、夫は行ったきり戻っては来ませんでした。本部まで行って、最後は伊江島だったそうです」
字伊原在住 真栄城ヨシさん(78才)
23歳の時、私は同じ伊原の真栄城守盛と結婚しました。夫は21歳から6年間兵隊に行っていて、沖縄に帰ってきたのは27歳の頃です。帰郷後、夫は父と共に農業を営んでいました。
1944年(昭和19)になり、戦争が間近にせまってくると、宮崎への疎開の話がありました。私たち親子と祖母は行くつもりでしたが、夫は「ヤーサジニシーガルイチュリ(飢え死にしに行くのか)」と賛成してくれません。それで妹親子だけが疎開しました。
翌45年(昭和20)には、夫が防衛隊に召集されてしまいました。朝早く迎えのトラックが来て、夫は出ていきました。私は子供がまだ小さかったので「いってらっしゃい」と言っただけで、ちゃんと見送ることはできませんでした。その後、山原疎開の話があり、行こうかという気持ちもあったのですが、先に行った人たちが途中で橋が壊されたとかで戻ってきたものだから、結局行けずじまいでした。
避難はずっと伊原でした。両親は家に残り、私は当時77歳になる祖母と子供たちを連れ、おじの家族と一緒に自分たちのお墓の所に避難しました。
爆弾の破片がポンポン落ちてくるので、墓をあけて入っていましたが、あまりにも激しいので、今度は部落後方のトンゴ山に壕を掘って入りました。壕に行くとき、頭の上からヒューヒューと爆弾が飛んでいました。あれが爆発すると大変です。あの時は本当に怖い思いをしました。
その間も、両親は家に残っていたので、飛行機が飛んでいない時などは、壕から出て走って家に戻り、ご飯を食べたり、シラミのついた着物を洗いました。
ある日、壕の上に艦砲が落ちて、入口をふさがれたこともありました。大変なことになったと思いましたが、幸い家に残っていた父とおじに助け出されました。
その頃、私は馬天の海から車みたいのが上がってくるのを壕から見ました。へんだなー、ひょっとしたらアメリカーじゃないかなと思いました。それから間もなく捕虜です。防衛隊にいった親戚から「アメリカの捕虜になったら苦しめられるから、捕虜にならない方がいいよ。手榴弾を持っておきなさい」と言われたことがあったので、初めてアメリカーを見た時はとても怖かったです。
部落に降りると、たくさんの避難民であふれていました。家に残っていた両親は無事でしたが、家にあった鍋や食糧などはほとんどとられ、なくなっていました。畑の芋なども掘られていました。
それから馬天からアメリカ軍の大きい船に乗せられ久志村の汀間に送られました。船から降りると、年寄りと子供はトラックに乗ることができました。
でも、私は夫の部隊が山原に行っていると聞いていたので、歩いていれば夫に会えるかもしれないと思い、「歩かないとお父さんに会えないよ」と子供たちに言いました。祖母が下の子をおぶって、私が上の子の手をひいて歩きました。
汀間では食べ物はないし、マラリアにかかる人も多く、避難生活以上に大変でした。
結局、夫は行ったきり戻っては来ませんでした。
本部まで行って、最後は伊江島だったそうです。この戦争で亡くなったので、一緒に暮らしたのはたった三年間です。五十年たっても忘れられないのは戦争のときのことですよ。
ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1wjhndjU66zSNDyircOZ60Q_f-9tUuesd |
---|---|
大分類 | テキスト |
資料コード | 008450 |
内容コード | G000000700-0006 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第240号(1997年7月) |
ページ | 7 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1997/07/10 |
公開日 | 2023/12/14 |