なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「疎開してよかったのか悪かったのか、今でも二男のことを思い出すたびにわからなくなります。」

字屋比久在住 平田スミさん(82才)
私は数え21歳の時、同じ部落の平田守と結婚しました。
夫の父は、夫が四、五歳のころブラジルに移民して、一度も帰らないまま戦後、向こうで亡くなりました。ブラジルには借金して行ったそうで、そのために母が(姑)二人の子どもを預けて紡績に行き、父の借金を返したと聞きました。
でも、母が紡績に行って三年目に父から送金があったらしいです。母はその金で屋敷を買い、家を建てることもできたそうです。
私も貧しい家に生まれました。私が小学校3年の時に父が亡くなり、私は親戚の家の子守に出されました。イリチリー(住込み)みたいなものです。四年間、学校にも行かせてもらえませんでした。
子守のあとは帽子編みの仕事に励みました。実家の兄が請負い、地元の人を集めて家でやっていました。県内で現金収入を得るには、この帽子編みが手っ取り早くてよかったのです。夫もその時の仕事仲間のひとりでした。
結婚して間もなく長女が生まれ、あと長男、二男と続きました。1937年(昭和12)、長男が生後二か月の時に夫は大阪・堺に出稼ぎに行きました。知り合いの鉄工所で働いてしばらく行ったり来りしていましたが、戦争前(沖縄戦)はずっと大阪でした。
疎開の話は役場からきました。命令みたいなもので断われない状況でした。長男は「お父さんの所に行ける」と喜んでいたのですが、姑が「長男はここに残せ」と言って絶対に行かせてくれないのです。
そのころ、船が沈没した話も伝わっていましたので、私もどうしても連れて行くとは言えませんでした。当時は、どちらかが助かればいいという気持ちです。
長男を置いて行くのはとても辛かったのですが、長女と二男を連れて、疎開先の熊本県上益城郡白旗村のお寺(注・長女の外間笑美子さんによると、白旗村は現在甲佐町。寺の名前は光西寺である)にひとまず落着きました。屋比久から行った七、八家族三十人あまりの人が、お寺で共同生活です。二男が泣き虫で手がかかり、まわりにずい分気を遣いました。
しかし、三か月後に夫が迎えにきたので、私たちは堺市の東湊に移りました。郊外の方でしたからそれほどひどくはなかったけれど、空襲警報がしょっ中鳴って、そのたびに防空壕に避難しました。1946年の三月、四月ごろは特にひどかったです。
沖縄の王砕の話を聞いた時、姑も長男もどうなったのか何もわからないので不安でした。
1946年(昭和21)9月、広島の宇品港から引揚船に乗り、やっと帰ることができました。姑も長男も無事でした。家は全部焼けましたが、姑たちは元の屋敷にホンダテヤー(規格住宅のこと)を建ててもらい、夫の妹の家族と一緒に住んでいました。
ところが、二男が間もなくはしかにかかり、知念村の山里にあった病院で何度か診てもらったのですが、翌年あっけなく亡くなりました。
長男はとても弟をかわいがっていたので、口にしないがとても悔しがりました。こんなことになるなら二人を引離すんじゃなかった、と私も後悔しました。疎開してよかったのか悪かったのか、今でも二男のことを思い出すたびにわからなくなります。

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大分類 テキスト
資料コード 008450
内容コード G000000699-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第239号(1997年6月)
ページ 7
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1997/06/10
公開日 2023/12/13