なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「降りてみると、戦争で沖縄はだいぶ変わっていました。こっちも大変だねと思いました。」

字冨祖崎在住 知念米さん(73才)
私は大正12年(1923)、玉城小鍋、カナの長女として糸満で生まれました。二人きょうだいで、私の下に二つ違いの弟がいます。
父は漁師でしたが、私が七歳の時、シンガポールヘ渡りました。後に私たちを呼び寄せるということだったそうです。ところが、その二年後、母は当時糸満で流行っていたデング熱のために亡くなってしまいました。それから、私は母方のおば、弟は父方の祖父母に育てられました。
昭和11年(1936)、糸満尋常高等小学校を卒業した私は魚売りの仕事を始めました。朝、漁業組合から魚を買い、那覇の街に売りに行くのです。
お客はさしみ屋やかまぼこ屋といった所でした。仕事のことは、同じような商売をしている組合のおばさんやいとこの姉たちがいろいろと教えてくれました。一斤八円で買って10円で売るといった具合で、その差額が儲けになりました。糸満と那覇とを行き来して、2年ほど続けました。シンガポールの父からは仕送りもありましたが、卒業後は自分で稼いだ分で生活をしていました。
16歳の時、私はパラオで漁業をしていたおじに呼び寄せられました。おじの長男で同じ年のいとこも一緒でした。一週間ほどでサイパンに着き、そこからさらにパラオのマラカル島に渡りました。
私はおばと一緒にコロールの街で日本人の営んでいる魚屋や料亭などをまわり魚を売りました。おばは、やり手で私の分もすでに予約をとってありました。時には、魚売りを終えた後、カツオ船からカツオを買い、ナマリ節を作ったこともあります。ナマリ節は地元の住民と果物と交換して、街に売りに行きました。2カ年くらいはおじの家にいましたが、その後はいとこの姉たちと一軒家を借りました。
昭和17年(1942)、私はマラカルの港湾工事で潜水夫をしていた字冨祖崎出身の知念喜正と知り合い、結婚しました。私が19歳、夫が20歳でした。翌年には長女キヨ子が生まれました。
当時、パラオでも真珠湾攻撃のことなど、日本の戦況がよく伝えられていました。シンガポール陥落の時などは、提灯行列が行われました。しかし、日本の戦況が不利になると、パラオでも空襲が激しくなり、本土や台湾に引揚げる人が多くなりました。
私たちも台湾に行く準備をしていたのですが、前の便の船がやられてしまい取り止めとなりました。
その後、夫は召集され、私たち親子はパラオ本島の朝日村へと避難しました。避難所は地域ごとに決められているようでした。用意された避難所で何10人という人が一緒に生活をしていました。昼間は空襲があるので、朝から皆で近くの山へ避難し、夕方には戻ってきました。その間私は農家で手伝いをしたり、買ったりして食べ物を手に入れていました。
終戦後、私たちのいた避難所の近くを、兵隊に行っていた夫が偶然通りかかり、再会しました。
昭和21年(1946)の2月頃、私たち家族は朝日村にいた他の人たちと一緒にアメリカの船で沖縄に引揚げました。船が沖縄に近づくにつれ嬉しい気持ちになったのですが、降りてみると、戦争で沖縄はだいぶ変わっていました。こっちも大変だねと思いました。
終戦後、シンガポールにいた私の父も引揚げてきていましたが、夫の父、喜吉と弟の正雄はこの戦争で亡くなっていました。

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大分類 テキスト
資料コード 008450
内容コード G000000698-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第238号(1997年5月)
ページ 7
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1997/05/10
公開日 2023/12/13