なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「小さい子がいたのに、私たちはこの戦争で2度も命拾いをしました。沢山の人が死んだ中で、ただ運がよかったとしか思えないんです」

字兼久在住 嶺井静子さん(70才)
戦争で恐ろしい思いをしたのは、10・10空襲(1944年=昭和19年10月10日の大空襲)の時からですよ。特に私は、その二日後の12日に、空襲警報の中で二番目の子をお産したので、本当に怖い思いをしました。
当時、佐敷国民学校に兵隊が駐屯し、馬天港には暁部隊がありました。そのせいもあったんでしょうね。兼久は馬天港に近い海辺の部落ですから、この時の空襲で兼久の人が一人犠牲になったんです。
空襲前から私たちは、勤労奉仕の合間に自分たちの壕を掘っていました。壕はカーラバタ(川岸)とか山の方なので、家からはだいぶ離れています。
その頃男の人たちは出征したり、軍に徴用されたりして家にいないんです。壕掘りは殆ど、女たちの仕事でした。私の所は夫の兄一家と東恩納さんの三家族一緒の壕でしたが、まだ完成してなかったんですよ。私は臨月の身だから奥に入れてもらえたけれど、皆は入口で体をくっつけてしのいでねー。
翌日、警報が解除になったので家に戻りました。
その晩も壕に行って泊まるつもりでしたが、私はもう陣痛が始まって行けないんです。姑が産婆さんを捜してきて、12日の明け方、何とか無事に長女が生まれました。
ところが午前9時か10時頃、また空襲警報が鳴るんです。私は皆に担架でかつがれて行き、それから4日間、解除になっても家に戻れず壕で過ごしました。戻ってからも、蚊がブーブーするだけですぐ飛び起きたりして、とても不安でしたよ。
九州疎開の話も山原疎開の話も、あるにはあったんですが、姑は行かないと言うし、小さい子ども二人抱えていては自由に動けないので、やめました。
佐敷に米軍が入ってきたのは、いつ頃ですかねー(注・資料によると1945年5月下旬)。それまで私たちは壕と家を行ったり来たりしていましたが、アメリカーがきたというので親慶原に逃げ、そこで自然壕(ガマ)に入りました。
ガマの名前はわかりません。そこに2、3日はいたと思いますが、このガマは岩盤が薄かったのか、中にいても地上の物音が聞こえてきて、どうも落ち着かないのです。
危ないと思い、私たちはこのガマを出ることにしました。二日後にこのガマは直撃弾を受けたようです。残っていた知念村海野の人たちは、その時亡くなったと聞きました。
それから私たちはいったん兼久に戻り、さらに伊原に行って、親戚の家の壕に入りました。郵便局員だった夫は最後に防衛隊に召集されたが、その頃は私たちの所に戻ってきていました。
伊原の壕で、すぐ近くをアメリカーたちが銃を手に歩いているのが見えました。壕に一歩でも近づいたら、手榴弾で皆一緒に死のう、と覚悟を決めていました。手榴弾は東恩納スエさんが持っていたんです。でも、アメリカーは壕までこなかったですよ。
その後、伊原のワイトゥィ(切通し)の奥に移動したのですが、姑が「部落の方では洗濯物が干されている」と言う。戦はもう終わったんだねー、とその時私たちは皆でぞろぞろ山を降りました。
小さい子どもがいたのに、私たちはこの戦争で二度も命拾いをしました。沢山の人が死んだ中で、ただ運がよかったとしか思えないんです。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1Ov8WfM5mU5lbKqDLLDtEA01Nqd4KE8Uu
大分類 テキスト
資料コード 008450
内容コード G000000697-0003
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第237号(1997年4月)
ページ 3
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1997/04/10
公開日 2023/12/13