なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「この予の為に佐敷から逃げてきたのに、この予を生かす為に金武までやってきたのに、そんなことできませんよ」

字津波古在住 新嘉喜静さん (72才)
出身地は知念村のスクガー (底川) 屋取。私はそこで久田友明、ツルの三女として生まれました。
きょうだいが多くて家が貧しかったので、私は小学校を卒業するとすぐ紡績に行きました。和歌山の南海紡績という所です。「7月、正月に送金するのを、忘れるんじゃないよ」と、親にそう言われて送られて。当時は、そういう時代ですよ。
私の夢は、職業婦人になることでした。幸い、会社の寮でいろいろ勉強する機会があったので、講義録を取り寄せて看護婦や助産婦のことを学びました。いつか役に立つだろうと思ったんです。
3年後に帰郷し、父の口添えもあって、王城の大城病院で働くことになりました。
父はジョーシチャー (女中、今のお手伝いさん) にと思ったようですが、私は先生に 「講義録で勉強していますから、看護婦見習いならやります」 と、はっきり希望を言ったんです。父にはひどく怒られましたが、それが先生に認められ、見習いながら念願の看護婦に採用されました。
その間に、仲伊保の運天屋取の、今の夫・新嘉喜友幸との縁談がありました。私はまだ仕事に未練があり、学校にも行きたい。ちょっと迷いましたが、義父母がとてもいい人で 「学校に行ってもいい」、と言うのです。そこで1944年 (昭和19) 1月に挙式を済ませると、3月には産婆学校に受験し合格することができました。
夫は県庁に勤めていました。私の学校も那覇でしたから、毎日バスと軽便鉄道を乗り継いで、一緒に那覇に通いました。
ところがその学校は、10月10日の大空襲で全部焼けてしまいました。その後はもう、学校どころではないんです。
翌年の1月末、待望の長男が生まれました。
金武中川に疎開したのはそれから間もない、3月23日でした。ひどい艦砲射撃があり、殆ど着のみ着のままの状態で出発しました。私は長男を背負い、おむつと脱脂綿と砂糖を持ちました。夫は県庁だから一緒には行けない。義父母、妹、そして近所の人と数人。2日ほどかかって、やっと金武の大川の辺りに着きました。
大川の近くに壕がありました。大勢の人が入っているので、そこに私たちも入れてもらいました。やれやれと思ったら、長男が泣き出して、おっぱいをやっても泣きやまない。その頃、私はおっぱいがあまり出なくなっていたんです。
すると中にいる人たちが、「子どもが泣くなら壕から出て行け。そうでなければ子どもを殺せ!」と言うんですよ。子どもの泣き声が敵に知られて爆弾を投げ込まれたらどうするか、というわけです。
でも、私たちにとって初めての子です。この子の為に佐敷から逃げてきたのに、この子を生かす為に金武までやってきたのに、そんなことできませんよ。 「日が暮れたら出て行きますから、それまではここに置かせてください」 と頼み込んで、夕方にはその壕を出ました。
中川の避難小屋では、開墾地の人に、ずい分お世話になりました。でも食糧といってもミンジャー芋と野草ぐらいです。殺せ、と言われた長男は、砂糖水を脱脂綿に吸わせて飲ませ、それで命をつなぎましたよ。

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1NmBWJWBo2owSCyYB_SjJ51xI5kWCIUwl
大分類 テキスト
資料コード 008449
内容コード G000000692-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第236号(1997年3月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1997/03/10
公開日 2023/12/13