なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「私は、どんなしてこの人を元の体にしようかと、そう思うと涙も出なかったですよ」

字新里在住 桃原キヨさん(81才)
私の実家は、ナカモト小ヌ前です。当時の農家としては田んぼも畑も沢山あって、新里では大きい方だったんじゃないかねえ。
私は年寄りの子でね、母が45歳(数え)の時に生まれたそうです。末っ子であったよ。きょうだいは多かったというが、小さい時に亡くなったりして、何人だったかはっきりしない。
私が10歳の時に長男兄さんに男の子ができて、私はずっとその子を子守しながら家の手伝いです。牛馬、豚にえさをやるのも私の仕事で、草ツクリヤーから芋ガーチチャー、馬ウーヤーもしましたよ。キビ刈りの時期になるとねー、サーター車を馬が引くでしょう。その馬の後から尻を叩いたりして追うわけさ。それが馬ウーヤーです。
数え21の時に、同じ新里の桃原勇吉と一緒になった。親がきめた結婚ですよ。初めは、実家と夫の家を行ったり来たりして仕事をしました。
最初に長女が生まれ、2番目も女の子だったが、この子がまだ生後8か月の時に夫に召集令状がきたよ。昭和16年(1941)の夏だった。私はもう、本当にびっくりしました。一度行った、30過ぎの人まで兵隊にとられるからねえ、と思って--。
あの時の気持は、何と言ったらいいのか、ただ「頑張ってきてね」と話しました。出発という日に、二女が高熱を出したので、私は夫を見送ることもできなかった。夫は満州に行ったそうです。戦地から手紙がよく来ましたよ。
それから19年(1944)になって、沖縄も危ないということで、内地に疎開する話があった。私たちも行くことになっていたが、疎開の船がやられたらしいと聞こえてきて、取りやめになりましたよ。そしたら今度は山原に行きなさい、という話がきた。役場からね。家族も多いし行きたくなかったが、「あんたの家はお父も兵隊に行っているんだから、命を大事にしなさい」と言われてね。行ったのは彼岸の2日後でしたよ。艦砲が激しくて、あっちこっちに隠れ隠れして、やっと金武中川の山奥にたどり着きました。
米を持って行ったのに、この米を盗まれてねー、私は夫方の親戚のおばあさんに怒られたよ。食べるのはなくなるし、子どもは泣くし、山の中では大変だったね-。
小さい頃私が子守りした兄の子は、その時農林学校の生徒だったが、召集されていたって。それが金武の山の中で一緒になったと思ったら、そこで病死しました。とてもいい子だったがね。
捕虜になったのはいつだったかね。アメリカーが子どもたちに「カマワン、カマワン、ベイビー」して、食べ物くれたりしていた。
戦争が終わって、最初は糸数の収容所に連れていかれ、新里に戻ったのは21年の夏だったかねえ。
夫は捕虜になってシベリヤに送られていたそうです。昭和22年(1947)に、痩せて、ひげだらけの顔に目だけギョロッとして帰ってきた。それまではねー、夫がいつ帰るかと考えるよりも、私は子どもたちを育てるのに精一杯でした。
あんまりびっくりすると、涙も出ないよ。信じられないから、夫に「本当にうちの人かあ」と聞きましたよ。二男嫁は「兄さん帰ってきたんだね」と泣きましたがね、私は「どんなしてこの人を元の体にしようか」と、そう思うと涙も出なかったですよ。

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大分類 テキスト
資料コード 008449
内容コード G000000691-0013
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第235号(1997年2月)
ページ 10
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1997/02/10
公開日 2023/12/13