「私を見た母が『アイエーナー、ツル子戻ってきたんだねえ』と。母も私も、もう泣いて、泣いて」
字外間在住 知念ツル子さん(70才)
戦さが始まったころ、私はスクナムイの田中隊の炊事班におりました。その年の6月に私は19歳になりました。私の年のころの人は女でも、みな軍に徴用されています。
私には腹ちがいの姉がいたが、この姉は早くから大阪に行っていました。私は二女で、小学生の弟が2人おりました。父も出稼ぎに行っていたので、私は高等科には行かずに母の手伝いをしながら、弟たちのめんどうを見ていました。1944年(昭和19年)8月、上の弟を学童疎開にやったあと役場から命令があり、知念村安座間の部隊で救護班の訓練を受けました。
安座間ではたくさんの防衛隊員が、竹槍訓練や手榴弾の訓練を受けていました。私たちはこれを見て実際の戦争を知らないから、「この竹槍で何百人の敵を殺すのかなあ」と思いましたがね、とんでもないよ。軍艦と飛行機を相手に、竹槍は何の役にも立たない。でもあの時は、みなそういう教育を受けて、日本は必ず勝つと信じていました。
ところで、いよいよ戦争もひどくなって、田中隊は手登根の上のフナクブガマに移動することになりました。それはいつごろでしたかね。日にちはわかりません。私たちにも2人1組で、モッコと棒を用意してフナクブに集合せよ、という命令です。フナクブに着いたら、大里村の高平までモッコで爆薬を運ぶ仕事が待っていました。
「兵隊さん、この弾は何キロありますか」と聞くと、70キロという。「体重40キロの私がこれを担ぐんですか」と聞きました。そうすると、「お前は国のためにここに来ているんだろう」と怒鳴られました。高平まで何時間かかったかねえ。夜歩くんだが、照明弾があがると「ふせー」という声。弾薬が重くて肩も胸も、腰も痛い。
高平に着いたと思ったら、そこへ摩文仁からやってきた兵隊と一緒に、今度は食糧を背負って行けというのです。兵隊たちは米俵を担ぐが、粉みそや乾パンの箱を担ぐのに女2人の手が必要だと。それで私ともう1人。それぞれ2箱ずつ背中にくくりつけて、また弾の中を飛び出して行きました。やっぱり昼は歩けない。
もう疲れて、疲れて。食べ物も水もない。だんだん腹が立ってきて、悲しくなって、摩文仁に着く前に1箱は捨ててしまいました。4日間くらいかかって、それを届けて、また高平に戻ってきました。
高平にはもう、部隊の人は残っていなかった。壕の中をのぞいてみると、負傷兵が5人。私はもう家に帰りたかったが、1人では帰れないのでずっと兵隊についてまた摩文仁あたりに行きました。
偶然そこで、知念村のトウマシキさんに会った。若い女が兵隊と一緒にいるのは危ないと言って、トウマさんが知念に帰る人たちに頼んでくれて、佐敷まで連れてきてもらいました。
スクナムイの手前のカナー屋比久の毛にきたら、私の親と父方のおばの家族は壕に隠れていて無事でした。私を見た母が「アイエーナー、ツル子戻ってきたんだねえ」と。母も私も、もう泣いて、泣いて。親の顔を見たら安心して、壕の中で何もしないで、思いきり寝ましたよ。そのあと私たちは捕虜にとられました。
出稼ぎに行っていた父は、戦後学童疎開の弟と一緒に帰ってきました。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008449 |
内容コード | G000000688-0004 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第232号(1996年11月) |
ページ | 3 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1996/11/10 |
公開日 | 2023/12/13 |