「父を殺した友軍の兵隊がどうなったかわかりませんが、話を聞いた時はとても悔しくて…」
字佐敷在住 仲里ヨシさん(69才)
両親がサイパンに渡った時期はわからないけれど、私は昭和2年(1927)にサイパンで生まれました。きょうだいは本当は全部で5人だったですが、私の上にいた長男と末の妹が小さい時に亡くなって、戦争中は3人でした。母ナヘは私が11歳の時に病死。父松本永徳もサイパンで戦死して、私たちはきょうだいだけで沖縄に引揚げてきました。
私たちがいた所はサイパンの南部の東海岸側で、チャッチャと言っていました。南洋興発株式会社の第二農場が開かれていた所で、父もサトウキビ作りをしていました。
私はチャッチャ尋常小学校卒業後すぐガラパンに出て、最初の1年間は沖縄県人の名城商店、その後は石山百貨店の店員として働くようになりました。ガラパンはサイパン一の賑やかな街です。石山百貨店はその中でも大きくて、そこに勤められて大変嬉しかったですね。
ところが、仕事にも慣れて2年ほどたったころ、事情があって家に帰ることになりました。チャッチャに戻って今度は、学校の国吉真清先生の子守りの仕事につきました。そこでも2年くらい、洋裁を習いながら勤めました。
ちょうどそのころから、サイパンにも戦争の足音が聞え、空襲がひどくなりました。
米軍の上陸は6月15日ですかね(1944年)。ともかく空から海から爆撃がひどくなって、私たちはタッポーチョー(サイパンのほぼ中央に位置する山)の北の方に逃げました。私は同級生の城間さんと一緒に、80歳あまりの彼女のおばあさんを連れていました。昼は隠れて夜歩くのですが、その間に私は家族とはぐれ、いつの間にか城間さんたちともはぐれてしまいました。
カラベラという所で、一緒に行動していた人たちが海で死ぬというもんだから、私も、もうここで死ぬのかなあと思ってね。あの時、いろいろなデマがあったんです。女はトラックに両足を縛られて二つに引き裂かれるとか、一列に並べられて戦車でひき殺されるとかね。
断崖から身を投げる人たちをたくさん見ました。
子どもを先に落として親も後から飛び降りるんです。見ると怖いが、どうせ皆も死ぬと思っているから、場所を探して、岩づたいに海に降りようとしていました。そうしたら米兵が銃を構えて、下から上がってきて、私はそこで捕虜にとられました。
翌日、私たちはカラベラから別の収客所に移されました。毎日たくさんの人がトラックで運ばれて来る。その時からは、家族はどうなったかと気になってね。1週間後に妹と弟もきたが、そこに父の姿はなかったんです。
妹の話では、父たちもカラベラまで行って、壕に隠れていたそうですが、友軍の兵隊に「お前はスパイだ」と言われ、父たちのいた壕に手榴弾を投げ込まれたというんです。父はそこでそのまま。妹と弟は負傷したけど助かったということでした。父が水汲みに出ていって、壕に戻ってきたところだったそうです。父を殺した友軍の兵隊がどうなったかわかりませんが、話を聞いた時はとても悔しくて…。
収客所で私は炊事班の仕事につき、1日36セントの賃金をもらったと覚えています。昭和21年(1946)3月ごろ、米軍の船で引揚げてきました。中城の久場崎に着いた時は、沖縄は寒いという印象でした。