なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「子どもを外の松の木にくくっておこうかねー、と思ったこともあったよ。だけどね、自分の子どもにそんなことできないでしょう」
手登根在住
平田ウサさん(90才)

おばあは小学校を卒業した後、補習学校で機織りの勉強したよ。それから大分に行って、紡績で2年満期まで勤めて、次は大阪に行った。
今のおじいと結婚したのは21の時だった。名前は平田沢益。同じ手登根の人で、歳が6つ上だった。子どもは全部で8人だがね、戦争の時は7人だった。8番目の四女は、戦後生まれた。

戦の前は女も皆、軍の作業に出された。おばあは子どもが多いから行かんでもよかったがね、長女は弾運びさせられたよ。三女は宮崎に疎開させた。(編者注・学童疎開)。
それからおばあたちは、金武に疎開した。いつだったかわからないが、外間部落の方ではもう弾がパンパン飛んでいたよ。おじいは兵隊終って、歳もとっていたから防衛隊にはとられなかったさ。
長女は軍に、三女は宮崎に。だから子ども5人とうふおばあ(姑)、それに親戚の子1人、合わせて9人だよ、金武に行ったのは。おじいが荷物担いで、私が末っ子をおんぶして、ずっと歩きどうしだったよ。うふおばあも子どもの手を引いてね。
昼間は他人の墓の中に隠れて、夜歩くがね。足ははれるし、子どもは泣くし、ナー、イッペーアワリヤタンドー。
うちらは行くのが遅かったはず。金武に着いたら、入る家がなかったさ。山奥に行って住む家を作らないといけないといって、おじいとうちは末っ子だけ連れて、荷物取りに佐敷に戻ったわけ。だがね、また金武に行こうとしたら、この時からはもう行けなくなっていた。激しくなったからね。
それで、手登根の自分たちの壕に入っていたが、そこも危なくなって、山の方の壕に入ったさ。自然のガマよ。ウカミガマといっていた。中に入ったら、とがった石があるさ(鍾乳石のこと)。子どもが泣いたら「外に出せ!」と、怒鳴られる。子どもは戦争の邪魔というわけよ。兵隊がそう言ったよ。
おばあはもう、子どもを外の松の木にくくっておこうかねー、と思ったこともあったよ。だけどね、自分の子どもにそんなことできないでしょう。
こんなふうにして、民間人は皆、壕から追い出されているよ。いい壕は兵隊にとられてね。
自分たちはまたあっちこっち逃げて、マージドーという所で捕虜にとられた。山から下りて来る時、皆泣いたよ。(アメリカの)兵隊の目が、あんなに青いでしょう。とても怖かったよ。
その後、与那原から船に乗せられて、山原の大川という所に連れて行かれた。そこに着いたら、漢那(宜野座村)の方に避難民がたくさん来ているって聞いて、家族を捜しに歩いて行ったよ。
漢那でうふおばあたちに会った時は、「アキサミヨー、生きていたね」して、抱き合って泣いたよ。
山原でうふおばあたちは、食べ物がなくて、長男が芋グワー掘ってきたりして、こんな物食べていたそうだ。長男は11歳だったよ。
漢那ではアメリカー(米軍)から、配給があったよ。そこでは二女がよく働いてくれた。
うちは家族が多かったでしょう。戦の間は皆ばらばらになったがね、誰もケガ一つしないし、よく無事で生きていたね、と思うよ。これは、珍しいくらいだよ。
思い出したくないことだがね、今の子どもたちに話して聞かさないといけないねー。

※おばあはウサさん本人、おじいは、夫沢益さんのこと。

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大分類 テキスト
資料コード 008449
内容コード G000000686-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第230号(1996年9月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1996/09/10
公開日 2023/12/13