「妻と子どもは山原に避難したようだが、二見で子ども2人が亡くなっていた」
新里在住 石原誠信さん (78才)
私は大正6年 (1917) に生まれた。昭和13年1月の徴兵検査で第一乙種合格、間もなく臨時召集があり、現役兵として鹿児島県伊敷村に入営した。
そこでは一か月間、自兵戦法の銃剣術の訓練があった。
訓練終了後、下関から船で中国の大連に渡り、さらに満鉄で5日間かけて北満の黒竜江省黒河に着いた。そこはソ連との国境地帯で、国境警備が重要な任務であった。私はそこに駐屯する関東軍森田部隊前田中隊に配属された。
歩兵である自分たちはまた、「匪賊(ひぞく)討伐」 の名目で戦闘に参加させられた。戦い終って原隊に戻ると、必ず満州皇帝からの恩賜のタバコが配られた。
「極寒冷下の戦線は銃に氷の花が咲く見渡す限り銀世界」 と歌にもあるように、北満の冬はきびしい。最低気温は零下45度まで下がり、凍傷になることもしばしばあった。
全く下品な話だが、便所はたれ落とし式だった。用便するとすぐに凍ってしまい、だんだんそれが積み重なり先がとがるので、暗い時はうっかり用便もできなかったほどである。その凍った汚物の処理には満州人を使っていた。彼らは圧迫されていた。
軍隊では階級がものをいうと言われていたので、初年兵は皆、早目に一等兵昇進を目ざした。しかし、沖縄出身者は馬鹿正直で思うように意思表示もできず、二等兵から一等兵への昇進は不利な面があった。
2か年の軍隊生活が過ぎて昭和15年の春、私は一等兵で満期除隊となった。帰ってからは村の在郷軍人会活動に励み、会の連絡係と字の青年会長も兼ねていた。
在郷軍人会の活動として知念、佐敷合同の簡閲 (かんえつ) 点呼の時、字伊原の海軍基地内で宿泊教練があり、私は銃剣術の指導を担当した。対象者は徴兵検査で丙種以下の兵役免除者と入隊前の青年会員だった。
その頃は銃後の人の軍事教練もさかんで、よく簡閲点呼を受けていた。特に新里出身の嶺井稔 (戦前助役・戦後村長) と与那嶺米光の両氏は熱心で、軍人以上の技量があると連隊区司令官や在郷軍人会長から賞賛されていた。
ところで当時銃剣術はさかんだったが、防具は村と字新里にそれぞれたった一組しかなかったので、十分な訓練ができなかった。そこで嶺井、与那嶺両氏と在郷軍人有志の寄贈で防具を揃え、銃剣術指導も充実するようになった。
そのかいがあって、在郷軍人総会島尻大会で新里出身者は村代表となった。昭和16年の郡大会で嶺井行正氏と自分が出場し、そこで優勝したことは忘れられない。さらに奥武山での全島大会には勢理客文吉、大城正雄、嶺井努、勢理客正徳、勢理客正八の5人が出場し優勝した。そのうちの勢理客文吉、同正八、嶺井努の三氏は戦死した。
こうした在郷軍人活動を続けているうちに昭和18年、私に再び召集令状がきた。私は球六四部隊大谷中隊に配属され、八重山に行った。その時は兵長に昇進し約2年間軍務に就いたが、終戦後、無事帰還することができた。
私は満州から帰って結婚し、2人の子ども (一男一女) がいた。妻と子どもは山原に避難したようだが、二見で子ども2人が亡くなっていた。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008449 |
内容コード | G000000685-0007 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第229号(1996年8月) |
ページ | 6 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1996/08/10 |
公開日 | 2023/12/12 |