なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査

「右脚がぬるぬるしていたのでモンベをまくりあげてみると、流れ弾が貫通して血が流れていたのです」

新開在住(冨祖崎出身) 屋良ヨシさん(70才)
私の生家は冨祖崎で農業を営んでいました。サトウキビづくりが主でしたが、昭和19年頃は祖母と母、兄の4人家族でした。
私は昭和17年に県立病院付属助産婦養成所に入学しました。同19年3月には助産婦の資格をとって卒業し、冨祖崎の実家に帰ってきました。
それで、卒業と同時に軍の病院に勤務するよう命じられましたが、「家族が女ばかりで、兄も病弱で頼りにならない」ことを理由に軍隊入りをことわり、帰宅しました。
その年の夏頃、佐敷村に駐屯している部隊のために字佐敷の裏山で壕掘りなどをやりました。本当は母に作業の割当てがあったのですが、私が代わりに出たのです。
けれども、若くて助産婦の資格をもち看護の心得のある私を、ただ家で遊ばせておく時世ではなかったのです。役場に呼ばれて、「家から通えるところならいいだろう」ということで、玉城城跡付近に駐屯していた球部隊の野戦病院に派遣されました。私は家族の事情を説明するため役場へ行ったのですが、徴用延期どころか、ヤブヘビでした。
10月頃から親慶原近くの診療室に出向き、兵士の看護に当たりました。沖縄戦の前ですから、まだのんびりしたもので、患者も軽い病気で、傷病兵などいませんでした。
軍医は那覇出身の浜松繁陸軍少尉でした。その頃は診療室も衛生兵と2、3人で、浜松軍医もよく首里や那覇へ出かけられていました。
ところが、10月10日の那覇大空襲のあと急に部隊の動きが慌ただしくなり、あちらこちらに移動がありました。
私たちの部隊はそのままでしたが、昭和20年3月から摩文仁の方に移りました。しかし、壕のなかにいたので、どのあたりだったのかよく覚えていません。
米軍が上陸し、戦争がひどくなってからは、負傷した兵隊がどんどん運びこまれてきました。夢中でこれら負傷兵の手当をしていました。
6月頃でしたか、摩文仁も危険になってきました。
ある日、壕の入口近くで任務についているとき、私の右脚がぬるぬるしていたのでモンペをまくりあげてみると、流れ弾が貫通して血が流れていたのです。
幸い骨に当たっていなかったので、自分で処置しました。またその後、壕内の落盤で左脚を負傷しましたが、この時も骨折は無く助かりました。
その後、捕虜になり、そのまま冨祖崎へ帰ってきました。家族はみな無事でした。しばらくして佐敷村民は、山原へ送られることになりました。私たちは新里の浜からアメリカのLSTに乗せられ、辺野古岬へ着き、トラックで久志村の大川へ運ばれました。
大川ではよその難民と一緒で、狭い住まいに米軍の配給物資による生活でした。栄養失調の体に病気がまん延、特にマラリアはひどいものでした。私は看護婦でしたので、そこで診療所の仕事を手伝うことになり、佐敷に戻るまで勤めました。
昭和23年、私は復員してきた屋良景福と知り合い、結婚しました。

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大分類 テキスト
資料コード 008449
内容コード G000000683-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第228号(1996年7月)
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1996/07/10
公開日 2023/12/12