「ほとんど水ばかり飲んで暮らすこともありましたが、みないのちだけは助かってよかったです」 仲伊保在住 吉田トミさん(83才)
私は大正2年 (1913) の生まれです。同じ仲伊保の吉田福之助と結婚し、三男三女合わせて6人の子どもを産みました。
戦争が始まる前の年に夫が病気で亡くなり、しゅうとと義姉、そして私たち親子と全部で9人家族でした。
村から山原への疎開命令がきたのは昭和20年 (1945) の2月ごろですかね。彼岸を済ませてから行きましたが、しゅうとと義姉と長女フサ子を仲伊保に残し、5人の子どもを連れて疎開先の金武に向かいました。
佐敷を出る時は宮城バスに乗り、石川の伊波小学校で一泊しました。迎えのトラックがありましたが、朝食の片づけをしている間に私たちは置いていかれ、次のトラックが来るまで待てなくて途中の道を歩いたりして、やっと金武の並里に着きました。
金武のカー (大川) あたりで、友軍が何か訓練をしていました。
並里の避難小屋はすでにいっぱいで、あとから来た私たちはそこに入れず、他人の小屋の片すみを貸してもらったりしていました。しかしこのままではよくないと思い、村の疎開係の城間セイキチさんに頼んで、金武の奥の中川に移ることになりました。
中川では浦八重さんの瓦葺きの家に入れてもらいました。そのころから金武の方でも空襲が激しくなり、中川に避難してくる人が増えました。
どのくらいそこで過ごしたのか、そのうち 「金武の学校にアメリカ兵がきているが、何もしなかったよ」 という話があって、私は中川からようすを見に行きました。並里の友軍の陣地もアメリカ軍が使っていました。戦争はもう終わったんだ、と思いました。
やがて米軍から食糧が配給されるようになりました。山に逃げた友軍の兵隊が、夜になると時々、私たちのいる避難小屋におりてきて食糧を探していました。はじめはその兵隊に分けたりしましたが、そのうち米軍からの配給も少なくなり、私たち親子は水を飲んで空腹を満たしておりました。子ども達にもひもじい思いをさせましたよ。
そんな折、島尻の人が久志村に来ていると聞き、仲伊保に残してきた家族も二見にいると知りました。間もなく、二見からしゅうとが先に中川に来ました。
同じ部落の人に 「二見の親戚のところに行った方がいいよ」 とすすめられましたが、しゅうとに 「二見はマラリアがひどい」 と言われ、そのまま中川に残りました。
そのあと義姉と長女も来たので一緒に暮らすことができました。
その後私は、親戚に会うため、たびたび久志まで行きました。途中、CPに見つかったら大変です。ずっと歩きどおしなので疲れて、とうとう私もマラリアにかかってしまいました。子どもが 「もう二見には行かないで」 と心配してね。
昭和21年1月、中川から引き揚げ、大里村の目取真で半年間過ごしたあと、夏ごろやっと仲伊保に帰ることができました。
疎開先では、ほとんど水ばかり飲んで暮らすこともありましたが、みな「いのち」だけは助かって、よかったです。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008449 |
内容コード | G000000682-0007 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第227号(1996年6月) |
ページ | 7 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1996/06/10 |
公開日 | 2023/12/12 |