「ぶんか」という言葉ほどやっかいなものはありません。英語のカルチャー「耕す」ということに元来の語源があるのですが、かつてこの国には何にでも「ぶんか」と名付けた非文化的時代がありました。ぶんか住宅、鍋、ぶんか包丁、ぶんかマナ板、ぶんか橋ぶんか通り、ぶんか服装学院(オットこれはチガウか)。ぶんか靴下なんかになるともう完全にチンぶんかンブン。かく言う私も実は佐敷町ぶんかセンターのお手伝いをするぶんか人というわけ。かくまで文化づくとなにかブンカブンカと昔の楽隊のように浮かれた気ブンカになりませんか。井上ひさし調もこのあたりでチョンにしますが、本来の文化とは、目に見えるものではなくて、心の糧としてある無形のなにか、それも、おなじ土俵に立っておなじフィーリングを共有しあえる人どうしの心豊かな関係をさすのではないでしょうか。
ところで「あそび」。古い時代の日本では、音楽・舞踊の合体した表現をアソビ(楽)と称していました。日常的な生活と労苦から抜け出しひとときのハレの場で身も心も浮き立たせ新たな生活の力を得るための装置としてアソビがあったのです。つまり歌(そのなかには言葉もふくまれる)や鳴り物、そして舞が欠かせなかったのです。そこから由来するのでしょう、私たちは余裕やゆとりのことをアソビということがあります。
ホイジンガーという今世紀オランダの思想家は、「人間は遊ぶ動物ホモ・ルーデンスである」といいました。ご承知のように、遊びのメカニズムは誰にも命令されずに心身を非実利の世界、いわばムダの領域に羽ばたかせることで喜びを得るところにあります。人間と他の動物との行動メカニズムの決定的な違いは、遊べるか否かにあるとホイジンガーは考えたのです。遊びに熱中する子どもは私たちの心をなごやかにしてくれます。芸術、芸能も、科学も、ときには政治ですら遊びの延長であると言えるかも知れません。経済活動ですら、マネー・ゲームと呼ばれるご時世です。
文化とあそびをこうして透視してみると、そこにはなにかしら共通のメカニズムがはたらいていることに気づくはずです。
なによりも「食うために生きねばならぬ」人の生活のさまざまな葛藤からひとときであれ開放され、自と他との相互交流のなかで生きる力を日々新たにしてゆく。ここにまさしく文化とあそびの意味があるのではないでしょうか。
「町のおんがく文化の仕掛け人」と思いつつ過去2年の間お手伝いをさせていただきました。あと1年、私などよりはるかにあそび上手のさしきんちゅの方々と直に交わって遊びたい…そう念じてこのシリーズを終わらせていただきます。
長い間のご愛読ありがとうございました。(琉球大学教授)
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008448 |
内容コード | G000000675-0012 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第224号(1996年3月) |
ページ | 7 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1996/03/10 |
公開日 | 2023/12/12 |