なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

町史の記録帳 海兵団の履歴表

町史編集事務局には、皆さんから戦前・戦後の生活を伝える古い写真や書類など、さまざまな資料が寄せられています。
現在、字手登根に住む宮城清光さん(76歳)は、海軍兵時代の履歴表を大切に保管しています。
1920(大正9)年、二男三女の長男として生まれた宮城さんは、佐敷尋常高等小学校を卒業後父親とともに農業に励んでいましたが、間もなく名古屋に住む姉を頼って、出稼ぎに行き、親戚の紹介で日当2円のべニヤ板工場に就職しました。その後、いったん沖縄に戻るものの、本土の方が稼げるということで、再び名古屋に行き、今度は軍需工場で働きました。
残業すると日当5円にもなったそうです。
20歳になって、徴兵検査のため沖縄に帰ってきた宮城さんは、大里第一国民学校で検査を受け、甲種合格となりました。
1941年1月、宮城さんは佐世保海兵団に入団しました。銃剣術などの軍事訓練を経て、3カ月後、三等水兵に昇級し、戦艦霧島への乗組みが決まりました。訓練航海中、あまりの厳しさに海に飛び込む新兵もいたようです。
同年11月、霧島は当時の北方領土・色丹島を経由し、他の戦艦とともに南下しました。行く先は知らされなかったが、ハワイに向かっていたようです。
12月8日の朝、宮城さんらは「アメリカと戦争する」と告げられました。真珠湾攻撃の日でした。
しかし、ハワイに近づきながら霧島は特に攻撃することもなく、約二週間後には無事佐世保に戻りました。
その後、横須賀の海軍砲術学校などで測的術を学びました。その頃には階級も水兵長になっていました。
1944年には、182部隊宮古島警備隊に配属されました。沖縄に向かう途中、乗っていた駆遂艦が大島沖で魚雷攻撃を受けながらも、僚船に引っ張られて無事に那覇港に着き、翌日には宮古島へ渡ることができました。
沖縄戦の年の2月、宮城さんは米軍の空襲による暴風で両目の角膜を負傷し、三力月間は全く見えない状態が続いたそうです。
終戦後、台湾の海軍病院で治療を受け視力も回復し、翌46年11月、帰郷することができました。
病院長に「履歴表は保管して持ち帰るように」とすすめられ、靴の底に隠して持ってきたのがこの資料です(写真)。
皆さんのお手元にもこうした貴重な資料がありましたら、ぜひご一報下さいますよう、よろしくお願い致します。 (町史嘱託 大山朋子)

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1u3wL0QLV_WqcnGb3C2AvpdH3HpRivBgm
大分類 テキスト
資料コード 008448
内容コード G000000675-0009
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第224号(1996年3月)
ページ 6
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1996/03/10
公開日 2023/12/12